どどど

だっしゅつ

へんじゃない

 

 『とかげ』を読んだのと、あと、ちょっとしたきっかけで、ばななさんの作品の好きなところが浮かびあがってきた。
 好きなところはいくつもあって、結晶のようになって、読むたびに光の当たるところがちがってきらきらするのだけど、今回はそのちょっとしたきっかけが、ある面をスポットで照らしたので、「…!」となったのだ。


 これくらいの年齢になってくると、結婚するとか、子どもをもつとか、そういう話題が身近になってくる。
 今までも、保育園や幼稚園から小学校へ、小学校から中学校へ、中学校から…と、それぞれに選ばなくてはならないような、決まっているような、義務とか権利が、年齢とともにあった。
 その時期を過ぎれば、過ぎたとしても、また別のなにかがやってくる。
 そう、そうして、やってくるけれど、それが自分に関わるかどうかは、ひとりひとり異なっている。

 そういうことがわからなかった頃は、タイミングが他のひとより早いことが優れていることと思い違いをしていたり、ずれているときには遅れているようで恥ずかしく隠したり遅れていないふりをしたりしていた。

 ばななさんの作品で描かれる、ひとがひとを好きになる過程が、あるいはそのひとたちが日々を過ごす様子が、よくて、何度も読んでいる。
 それぞれに実際あるのだろうと思う。物語とそっくり同じことという意味ではなくて、物語のなかで醸されている感じが。
 けど、あんまりにもふたりの間のことで他人の耳には届いてこなかったり、なにげないことだから話すに至っていなかったりするのだろう。

 生きているあいだに、いろいろと分かれ道というか、決断しないといけない時がやってくることがあって、そのときに結局決めるのはほんとうに自分しかいなくって、どれだけ情報や知識を集めたとしても、どこかに、自分の「なんとなく」が入ってくる。と、今は感じる。
 その「なんとなく」に自信をもてると、自分としてはぶれないみたいで、ぶれているように見えても自分はしっかりしていられる。ぶれないように見えるための選択をすると、自分はぶれているので、結局ぐらぐらになる。

 「なんとなく」に自信をもつための時間が、けっこうかかっているし、それが鈍らないようにするために、とてもとても慎重に生きているな…と感じる。
 ひとつ、ばななさんの作品を読むことで、「わたしはこれでいいんだとおもう」「あのひとはあのひとでいいんだ」と、わたしがもってる勘らしきものを否定せずにいられるようになった、気がする。

 よく聞く話とずれていると、
「これってへんなのかな」
「やめたほうがいいのかも」
「こうならないのはおかしい」
 と、なんだか、自分が間違っているような気がしてきて、あるいは、正しいところがあるような気がしてきて、そうなると、正しいところにいけないのは失敗なのかも、と、自分の感情やそのほか実際に関わっていることと関係のないところで判断をしてしまっていた。
 そのときのことはとても後悔している。

 だからこそ、ばななさんの作品を読むと、その当時の自分に、
「へんじゃないよ」
「やめなくっていいし」
「そうならないこともある」
 と声をかけることができて、少しずつ、少しずつ、傷がふさがって、薄くなって、癒えてゆく感じがする。

 

 『とかげ』を読んでも、そうだったし、それで、書いておかないとな…と思ったので、書いた。これを書いたら、わたしもだし、ひょっとしたら誰かも、ほっとするような気がした。


 

へんじゃない

 

 『とかげ』を読んだのと、あと、ちょっとしたきっかけで、ばななさんの作品の好きなところが浮かびあがってきた。
 好きなところはいくつもあって、結晶のようになって、読むたびに光の当たるところがちがってきらきらするのだけど、今回はそのちょっとしたきっかけが、ある面をスポットで照らしたので、「…!」となったのだ。


 これくらいの年齢になってくると、結婚するとか、子どもをもつとか、そういう話題が身近になってくる。
 今までも、保育園や幼稚園から小学校へ、小学校から中学校へ、中学校から…と、それぞれに選ばなくてはならないような、決まっているような、義務とか権利が、年齢とともにあった。
 その時期を過ぎれば、過ぎたとしても、また別のなにかがやってくる。
 そう、そうして、やってくるけれど、それが自分に関わるかどうかは、ひとりひとり異なっている。

 そういうことがわからなかった頃は、タイミングが他のひとより早いことが優れていることと思い違いをしていたり、ずれているときには遅れているようで恥ずかしく隠したり遅れていないふりをしたりしていた。

 ばななさんの作品で描かれる、ひとがひとを好きになる過程が、あるいはそのひとたちが日々を過ごす様子が、よくて、何度も読んでいる。
 それぞれに実際あるのだろうと思う。物語とそっくり同じことという意味ではなくて、物語のなかで醸されている感じが。
 けど、あんまりにもふたりの間のことで他人の耳には届いてこなかったり、なにげないことだから話すに至っていなかったりするのだろう。

 生きているあいだに、いろいろと分かれ道というか、決断しないといけない時がやってくることがあって、そのときに結局決めるのはほんとうに自分しかいなくって、どれだけ情報や知識を集めたとしても、どこかに、自分の「なんとなく」が入ってくる。と、今は感じる。
 その「なんとなく」に自信をもてると、自分としてはぶれないみたいで、ぶれているように見えても自分はしっかりしていられる。ぶれないように見えるための選択をすると、自分はぶれているので、結局ぐらぐらになる。

 「なんとなく」に自信をもつための時間が、けっこうかかっているし、それが鈍らないようにするために、とてもとても慎重に生きているな…と感じる。
 ひとつ、ばななさんの作品を読むことで、「わたしはこれでいいんだとおもう」「あのひとはあのひとでいいんだ」と、わたしがもってる勘らしきものを否定せずにいられるようになった、気がする。

 よく聞く話とずれていると、
「これってへんなのかな」
「やめたほうがいいのかも」
「こうならないのはおかしい」
 と、なんだか、自分が間違っているような気がしてきて、あるいは、正しいところがあるような気がしてきて、そうなると、正しいところにいけないのは失敗なのかも、と、自分の感情やそのほか実際に関わっていることと関係のないところで判断をしてしまっていた。
 そのときのことはとても後悔している。

 だからこそ、ばななさんの作品を読むと、その当時の自分に、
「へんじゃないよ」
「やめなくっていいし」
「そうならないこともある」
 と声をかけることができて、少しずつ、少しずつ、傷がふさがって、薄くなって、癒えてゆく感じがする。

 

 『とかげ』を読んでも、そうだったし、それで、書いておかないとな…と思ったので、書いた。これを書いたら、わたしもだし、ひょっとしたら誰かも、ほっとするような気がした。


 

人に聞こえるほどのひとりごと

 

 先週は、ぐずぐず書いてしまった。
 水曜日に書けなかった、納得いくようなところまで書けなかったから、そのまま木曜、金曜もずるずると書こうとし続け、なにかしら届けようともがいては、形になりきらなかった。
 その反動か、月曜日からやたら書き付けてはすぐに人目につくところへのせている。
 それもどうなんだろう、とわからないことを考えながら、また書いている。

 言語のことをぼやぼや考えているのと、人に伝えたいと思うことについて考えているのとが、ちょっと内容として混ざっている部分があって、あたまのなかでマーブル模様になって整理のつかないままここ数日を過ごしている。

 気にしていたことや自信のなかったことについて、あるいは疑わしかった部分について、あらゆるところから、なんといったらいいのか、言葉をもらっていて、少し混乱している。
 混乱してしまうほどにはうれしい、そういう、まあ、ほめてもらったり、というもので、こつこつとひとりで大切なものを大切にしようとして閉じていたら、もらっていなかった言葉だった。
 そういうのはひさしぶりな気がして、かといってほめてもらいたくてやっていたわけでもなくて、単に、生きるのに必要で、そのなかでなるべくいいようになるようにと地味にやっていたらこうなっていたので、これはなんだ?と思っている。

 今ここまで書いていることは、ぜんぶ何かしら絡み合っていて、年末だからとかでもなくわたしは今きっとこれに向かうときで、ただなんとも…エネルギーの要ることだから、ほんの少しだけ年の移ってゆく勢いも借りたい。

 言語とか手段を問わず、目の前にいる相手と、必要なのであれば話をしたく、それで、どうにか伝わるようにと齟齬を減らせるようにと言葉を選んだり、言語を変えたり、なんかいろいろをしている。
 だれでもそれはそうだ、とも思うし、でも、たぶん、できる限りいろいろしたいらしい、わたしは。
 そのなかにも得意なところと、てんでわからないしわざわざわたしが関与しなくていいところとがあるみたいで、それはきっと棲み分けなので、いさぎよく得意なほうに走って行きたい。

 それで、かぶっているような、かぶっていないような話なのだけれど、書くものを、やっぱりどうにかしたいので、もう少し、時間とか今とか過去とか、そういう次元じゃないものを書けるようになりたい。それがわかりやすくいうと、しばらくちょこちょこ人に言っていた「物語を書きたい」なのだと思うけど、ほんとうに物語を書くにはとても時間がかかる気がしていて、そのためのあれこれはずっとしているのだけどどうにもこうにもなので、その過程で書ける「物語のようななにか」を読んでもらえるようにしたい…。

 こういう、なんとかかんとかしたい、っていうのを、周りに見せるのは、しばらくやめていて(ちいさめのことならあまり気にしてないけど)、それは格好つけようとしてしまうから、なんとかやれてる感を出そうとしてしまうから言わないようにしていたのだけど、今回は、助けてもらえるなら助けてもらいたいし、ちょっとがんばりたいなと思っていますと言いたかったので見せることにする。

 たぶんひとりではままならない、し、ひとりだったら、まあ書くけどわざわざ形を選んだりするかわからない、けど、本当の意味でこれまでひとりではなかったし、それはこれからもそうなんだろうと思うので、それでいてこれからはどちらに転ぶにせよわからないので、今までどおりだけどちょっとずつ変わってゆくといいなあと思いながらこつこつやります…。

 それにしてもやっぱり勇気がいるな、こういうのは。眠ってしまいたくなる。

 

はしおき

 

 にこっ、とする。
 ほっとした。

 *

 今朝も、空を撮った。
 昨日の雨や、激しかったという夜中の雷の名残か、灰色がかったおおきな雲が空に横たわっていて、
「クジラみたいだ」
 と思った。
 雲の隙間が、クジラの大きな眼に見えてくる。
 
 電話に、もともとは連絡をとるための電話に、カメラが一体化している。
 わたしたちは写真や動画を簡単に撮ることができて、食べたものや見たこと、会った人の記録が残ってゆく。
 くっきりと、写し取ったそれらを、誰かに届けることができる。
 実際わたしも空の写真を、人に送ったり、SNSにアップしている。

 そんなわたしたちのそばにも、絵がある。

 絵の展示をみに出かけた。
 本屋さん、だけれどそのまわりを行き来するようにして雑貨や文房具、生活用品があるその場所は、棚のあいだを縫うようにして見て回っていると、ふと、絵や写真やなんらかの作品の展示に出くわす。
 お店はそこにいつもある、けれど日々様子は違っているのだろうし、訪れる側の調子によっても違って見える。ぐるりと一周してから、すでに見たはずの場所へ戻ると、受け取るものや感じ方がかすかながら移ろっている。
 その日の目的は絵の展示だったけれど、まっすぐ向かわず、展示のある部屋にいちばん遠いところから、巡っていった。

 以前、家で何気なくひらいた本に、
「本は読まないでいられるなら、読まないにこしたことはない」
 とあって、また、
「読まずにいられないから読むのだ」
 とあった。
 きっと、書くことも同じだろう。
 書かずにいられない。だから書いている。

 前回訪れた際に手に取った歌集がもう棚になくて、誰かが買っていったのだと知る。
 今使っている手帳の、来年版が出ていた。前回は無かった。

 ひとつ扉を引いて、中庭を通り、その部屋に入る。
 こつこつと、雑貨の並ぶ机のあいだを歩いて近づいてゆき、ふうっ、と息をつきながら壁に向かう。
 手書きのあいさつ文。
 写真を撮ることと、SNSへ投稿すること。どちらもOKですよ、と告げる、ちいさなしるし。
 少しずつ少しずつ沁みてゆくものは、どれも静かで穏やかで、それのおかげと気付かぬままに、心の背伸びや踏ん張りが、とけていく。
 お味噌汁がおいしそうだ。

 どこかで誰かが見つけたものをちらりちらりと見せてもらう。同じところから同じ目で同じ感情で見ることは叶わない。けれど、その人が「あ。」と残した一瞬、残そうとした一瞬に、ほんの少し、すれ違ってゆける。

 ペン立て、ハブラシ立て、メガネ置き、はしおき。
 メガネ置きの平たいお皿に、用意されていた備品のメガネを、持ち上げて、また置いてみる。
 幼い頃、旅行先で買ったサングラスを、帰ってすぐに踏んづけてつぶしてしまった。子どもにしかかけられないサイズだったから、今あったってかけられないけれど、なんだって床に置いていたかな。それは遅かれ早かれ踏んだだろう。

 ちょうど短冊のような紙に、絵と、みじかい文が書かれていて、それは絵日記だという。
 一ヶ月分、だからきっと30枚か31枚が並んでいて、9月30日から始まっていたそれを、ひとつひとつ眺めていった。
 もぐ、もぐ、とゆっくりご飯を食べているときに近い。「おいしい」と、呟きながら食べているときに近い。
 なんのためでもなく、絵をみている。絵をみる、という最中にいる。それをじんわり味わう。
 この頃には、少しずつ沁みてきていたものが胸にいっぱいになり、涙になって目の前を潤ませていた。
 なにが、ではなく、なんでか、もわからない。こういう反応がある。

 ほっとする、安心した。
 不確かな感覚を手繰りよせて、地味に、なるべく地味に、やっていく。
 それでも時折、ぱっとひらけた景色の色や光が鮮烈で、見失わぬように気にかけていたはずのあれやこれやが、わからなくなってしまう。
 からっぽだ、いろいろ忘れてきてしまった。と、また地味に拾ってゆく。

 どうしてもなにか持って帰りたくて、はしおきを選んだ。
 お土産であり、しるしである。帰って思い出して、もう一度うれしくなったり、わからなくなったときの手がかりになる。
 はしおきの絵が、社会の教科書にのっていたなんちゃら文字みたいで、うんうん、いいな、と思った。

 わたしの生活は、どんな色で、どんな輪郭をしているだろう。
 続いてゆく生活を見つめるそのまなざしは、そこにあるにおいや味は、きこえる声は、音は。

 

 こんにちは、と声をかけてもらって、慌ててあいさつをする。
 まだまだ見ていたかった。少し離れたところから全体をながめて、なんとかふんぎりをつける。
 今日はカレーを作るのだ。まずは鶏肉か豚肉のどちらかをスーパーで買うところから。

 

ちかごろ

 

 11月になった。
 もうすぐで2023年がひとまわりして、次の年になっていく。
 あたりまえだったそのことが、今はどうしてか新しい。
 2023年の、1月2月3月・・・と、ずっと過ごして、2023年はわたしのなかで増えてゆくのに、もう目の前に区切りがみえていて、次の2024年が待っている。
 終わってしまわないで。と、さびしく思う。

 昨日までは10月だった。もうすっかり11月に切り替えたので、10月が遠く感じる。
 今はまだ黄緑色に透けているイチョウの葉が、じきに黄色く道と空を覆う。そのときの心象はどんなだろう。今年はどんな11月を過ごすのだろう。

 10月の中ごろに風邪っぽさを感じてから、ずるずると半月ほど、すっきりしなかった。
 調子の悪いときに調子の良いふりをすると余計こんがらがると気がついてから、せめて自分に対しては調子の良いふりをしないでおとなしく過ごしていたが、やりたかったことができなくてもどかしかった。頭も体もにぶいし、においや味も、くもりガラスごしにしか向こう側が見えないような、そんな感じ方で、動くにも食べるにも作るにも厄介だなあ、と思った。
 10月の後半は、からだと気持ちの調子を合わせることばかりしていた気がする。

 しばらく、うつわ屋さんに行っていない。そろそろ行きたくなってきた。
 うつわが並んでいるようすはもちろん美しいのだけれど、ふれたとき、もちあげたとき、手で包みこんでみるときに、じんと胸にくるところがある。
 マグカップであれば口の広さや底の深さ、持ち手の丸みの帯び方など、作る人によって異なり、また、作る人が同じでも想定する用途によってさまざまな仕上がりになる。
 すべてすべてをそういったうつわで揃えなければ、という話ではちっともなくって、それらのうつわを通して、作った人がどんなふうにしてこの形にしていったのかを、感じるのがひとつの楽しみなのです。
 言葉でなくて、さわることでわかるというのが、胸に直接くる。
 その、胸にきたことを確かめたり、思い出したりするために、こうして言葉をつかって書いてみる。
 ひとまずは、家にあるうつわたちを、ながめてさわってみることにします。

 うまくは引き出しきれないものごとばかりです。
 その、ままならなさ頼りなさにあきれながら、果てしなく思える道のりを、ふぞろいで愛おしい宝ものを抱えて、這いつくばっています。

 

 

柿のケーキ

 

 柿を煮た。それらはちいさな柿で、わたしの手で剥くにはちょうどよかった。
 休みの日に焼き菓子、もっぱらケーキを焼くことが、この1ヶ月半ほどの定番になっていて、今度の休みは柿のケーキだった。
 どこかで習ったわけでもない、それなのに、なにかしら変わったことをしたくなって、へんてこな食感のものを作ることもある。
 柿。
 袋に入った柿を、袋のままがさりと掴んで、台所に連れてゆく。白い袋を開けてひとつ取り出し、前に剥いたときの記憶を手繰った。去年の秋か、おととしか。何でもいいけど、確かこうやって切れ目を入れていたな…と、包丁を握る。
 柿はそれぞれに色が違って、濃くてつやつやと夕焼けのように朱いものもあれば、ひかえめな黄色もあった。硬さも異なる。へたの部分だけはおそろいで、切ってしまってホーロー鍋に入れると、白の鍋底に色違いの実がごろごろころがっていた。
 みんながやわらかくなるまで、火を通した。
 想像はしていたものの、元の実がちいさかったので、それだけでケーキにするにはちょっと淋しい感じがした。それで、柿を煮ているあいだに頭に浮かんだアーモンドも、ケーキに入れることにした。
 正確には、アーモンドの、あの尖ったところがものすごく主張をしてきて、
「一粒まるまる入れたら、口の中に刺さるんではなかろうか…」
 と心配になるほどだった。スーパーでアーモンドを見たときにその心配は拭われた。そこまで鋭利ではなかった。
 きちんと柿を主役にしたい、それでもっておいしくて、あとなぜだかアーモンドも一粒まるごと入れたい。
 しばらくの家でのおやつになる、それだけのことではあるし、きっともっと学ぶべきことがあるんだろうなと毎回思うのだけれど、作りたいように作りたい。そうして手を動かしていく。
 材料をはかって、ひとつずつボウルに加えていき、混ぜる。ゴムべらに持ちかえて粉類を混ぜ合わせたところで、想像よりもかための生地ができた。型に流し込むというよりも、へらで落とすくらいのかたさ。クッキーほどでもない。ざっくりと決めた配分の結果であり、柿とアーモンドと生地のバランスは悪くないので、そのまま型に落として焼いてみる。
 180度で25分。
 つまようじを刺しても生地がついてこないのを確認して、しばし冷ます。
 冷めたところで、型から外してみると、なかなかの薄さだった。ひとまずまっすぐ半分に切る。この薄さなら正方形がよさそう、長方形だと折れてしまうかもしれないし、と、端を落としてからちいさい正方形を作っていった。
 ひょいとつまんで、ためしに食べてみる。
 これといって、目立たず、むしろ地味で、でもいいかおりがして、もうちょっとしっとりしていてほしいな、甘さがあってもいいかも。そんなかんじ。
 ナツメグも初めて使ってみたのだった。香りはそのおかげだろう。
 わたしの好奇心と、思いつきなんて、こんなものだ。できあがってみて毎回思う。時々できてしまう、かろうじて食べられるものを見ては、「なんであんなことしたんだろう…」と本気で落ち込む。
 それでもわたしのできることで、ほんの少しだけ遠くまでいけたなら、と、どきどきするのだ。ひょっとしたら…、と、わくわくするのだ。それでだめでも、また来週にはけろっとして作っている。

 今日の柿のケーキを食べて、前に諦めたいちじくをやっぱり買ってみればよかったと思った。安くないし、生のままで食べるには多いし、お菓子にするには難しいと聞いたことがあったのでやめたのだけれど、やってみればよかった、と思った。あのいちじくは綺麗だった。どうなっていても楽しかったろう。
 

落葉

 

 カーテンのうえを滑るように、ちいさな影がちらちら揺れた。窓の向こう側、秋の空気のなかを飛んでいる虫。
 朝夕、寝しなに満ちていた虫の声が、いつのまにか聞こえなくなっていた。道をはさんで向かいに見える木々は、ところどころ赤っぽく葉の色を変えている。

 それでも今日はずいぶんあたたかい。

 夏は過ぎて、すでに遠く、追うように9月、10月と、日を重ねている。景色も目に見えて色づき、冷えた肌をさすって、これから来るべき冬に向かって準備をしなければと気持ちが焦っていた。

 思うようにいかないことが次々につみかさなってしまう。
 心に重いものを抱えたまま、立ち止まっていたくても、平等に流れていってしまう時間に押し出され、なだれこむようにして次の日を始める。

 からだは、わたしの知らないところで勝手に乾燥して肌がかさかさになって、勝手に冷えて、手指の先が動きづらくなっている。
 いつもの動きやいつもの見た目と違っていると、焦ってしまう。
 かさかさしてると手入れができていないようで恥ずかしいし、冷えて動きがにぶいのは申し訳なさでくるしい。

 ちょっと気晴らしをしたほうがいい。

 バスに乗って、本屋まで歩いた。ときどき向かう、いつもの本屋。
 いつもの、と呼べるものは、きっとそれほど多くないけれど。本屋の近くのカフェで食べる、あのチーズケーキも、わたしにとっての、いつもの。
 棚をぐるりとみてまわって、いくつかの本をひらいてゆくと、どくどくと、血の流れるかんじがした。

 かさかさの肌も、にぶい体も、生きているうちはずっと向きあっていかないといけなくて、ああめんどうだなあとは思っている。すごくめんどうだけど、生きているんだなあ、と生々しく感じる。

 今日はずいぶん、あたたかかった。

 虫の声が聞こえなくなったかわりに、鳥たちの声が響いて、その姿を追い求めて顔をあげる。すると、鼻先をかすめる風に、甘い匂いをみつけて、瞬間、あの薄橙色の花が思い出される。

 わたしの、わたしたちの、いつものあのお店も、あの場所も、今日も変わらずあっただろうか。

 あたたかく陽が包んでいただろうか。