どどど

だっしゅつ

はしおき

 

 にこっ、とする。
 ほっとした。

 *

 今朝も、空を撮った。
 昨日の雨や、激しかったという夜中の雷の名残か、灰色がかったおおきな雲が空に横たわっていて、
「クジラみたいだ」
 と思った。
 雲の隙間が、クジラの大きな眼に見えてくる。
 
 電話に、もともとは連絡をとるための電話に、カメラが一体化している。
 わたしたちは写真や動画を簡単に撮ることができて、食べたものや見たこと、会った人の記録が残ってゆく。
 くっきりと、写し取ったそれらを、誰かに届けることができる。
 実際わたしも空の写真を、人に送ったり、SNSにアップしている。

 そんなわたしたちのそばにも、絵がある。

 絵の展示をみに出かけた。
 本屋さん、だけれどそのまわりを行き来するようにして雑貨や文房具、生活用品があるその場所は、棚のあいだを縫うようにして見て回っていると、ふと、絵や写真やなんらかの作品の展示に出くわす。
 お店はそこにいつもある、けれど日々様子は違っているのだろうし、訪れる側の調子によっても違って見える。ぐるりと一周してから、すでに見たはずの場所へ戻ると、受け取るものや感じ方がかすかながら移ろっている。
 その日の目的は絵の展示だったけれど、まっすぐ向かわず、展示のある部屋にいちばん遠いところから、巡っていった。

 以前、家で何気なくひらいた本に、
「本は読まないでいられるなら、読まないにこしたことはない」
 とあって、また、
「読まずにいられないから読むのだ」
 とあった。
 きっと、書くことも同じだろう。
 書かずにいられない。だから書いている。

 前回訪れた際に手に取った歌集がもう棚になくて、誰かが買っていったのだと知る。
 今使っている手帳の、来年版が出ていた。前回は無かった。

 ひとつ扉を引いて、中庭を通り、その部屋に入る。
 こつこつと、雑貨の並ぶ机のあいだを歩いて近づいてゆき、ふうっ、と息をつきながら壁に向かう。
 手書きのあいさつ文。
 写真を撮ることと、SNSへ投稿すること。どちらもOKですよ、と告げる、ちいさなしるし。
 少しずつ少しずつ沁みてゆくものは、どれも静かで穏やかで、それのおかげと気付かぬままに、心の背伸びや踏ん張りが、とけていく。
 お味噌汁がおいしそうだ。

 どこかで誰かが見つけたものをちらりちらりと見せてもらう。同じところから同じ目で同じ感情で見ることは叶わない。けれど、その人が「あ。」と残した一瞬、残そうとした一瞬に、ほんの少し、すれ違ってゆける。

 ペン立て、ハブラシ立て、メガネ置き、はしおき。
 メガネ置きの平たいお皿に、用意されていた備品のメガネを、持ち上げて、また置いてみる。
 幼い頃、旅行先で買ったサングラスを、帰ってすぐに踏んづけてつぶしてしまった。子どもにしかかけられないサイズだったから、今あったってかけられないけれど、なんだって床に置いていたかな。それは遅かれ早かれ踏んだだろう。

 ちょうど短冊のような紙に、絵と、みじかい文が書かれていて、それは絵日記だという。
 一ヶ月分、だからきっと30枚か31枚が並んでいて、9月30日から始まっていたそれを、ひとつひとつ眺めていった。
 もぐ、もぐ、とゆっくりご飯を食べているときに近い。「おいしい」と、呟きながら食べているときに近い。
 なんのためでもなく、絵をみている。絵をみる、という最中にいる。それをじんわり味わう。
 この頃には、少しずつ沁みてきていたものが胸にいっぱいになり、涙になって目の前を潤ませていた。
 なにが、ではなく、なんでか、もわからない。こういう反応がある。

 ほっとする、安心した。
 不確かな感覚を手繰りよせて、地味に、なるべく地味に、やっていく。
 それでも時折、ぱっとひらけた景色の色や光が鮮烈で、見失わぬように気にかけていたはずのあれやこれやが、わからなくなってしまう。
 からっぽだ、いろいろ忘れてきてしまった。と、また地味に拾ってゆく。

 どうしてもなにか持って帰りたくて、はしおきを選んだ。
 お土産であり、しるしである。帰って思い出して、もう一度うれしくなったり、わからなくなったときの手がかりになる。
 はしおきの絵が、社会の教科書にのっていたなんちゃら文字みたいで、うんうん、いいな、と思った。

 わたしの生活は、どんな色で、どんな輪郭をしているだろう。
 続いてゆく生活を見つめるそのまなざしは、そこにあるにおいや味は、きこえる声は、音は。

 

 こんにちは、と声をかけてもらって、慌ててあいさつをする。
 まだまだ見ていたかった。少し離れたところから全体をながめて、なんとかふんぎりをつける。
 今日はカレーを作るのだ。まずは鶏肉か豚肉のどちらかをスーパーで買うところから。