次はナス
友だちにもらった透明の耐熱グラスが、淹れたての熱いハーブティーを飲むのにぴったりで、重宝している。
お店でハーブティーを頼むと、たいていガラスのポットで用意してくれて、花やハーブがゆらゆら揺れているし、水はやわらかく色づいている。
それが目に愉しくて、家で飲むときもやっぱりそういう感じで飲みたかった。
ちょうどいいグラスがあってうれしい。
今日は「豆」と一日のあいだに何回も思った。
ひよこ豆とか。一度食べてその名をきいてから、なじみがあるわけではないけど忘れがたいダルカレーだとか。そういうのがちらちら頭に浮かんだ。
暑さが少しましな時間に買い物にでかけたときに、豆のたっぷり入った缶詰を買った。
思い浮かんでいたひよこ豆を買うつもりだったが、ひよこ豆は買わなかった。ひよこ豆の乾燥してあるやつは、水で戻さないといけないので、今日すぐには食べられない。ひよこ豆の缶詰は売ってなかった。
買ったのはうずら豆だった。缶詰は、赤いキドニービーンズとうずら豆との、2択だったのだけれど、なんとなく今日は赤色の豆じゃなかったので、うずら豆にした。
豆の話なのに、5回もひよこと書いているし、うずらも3回書いている。
チリコンカンみたいなのができあがって「チリコンカン」と思った。
調べたら材料が近からず遠からずだった。ほんとうのチリコンカンをたぶん食べたことがないのでわからないけど、学校の給食の記憶から〈豆が入っていて赤いやつ=チリコンカン〉と思っている。赤いのはトマトだっただろうし、今日もトマトを使ったから、味の記憶も多少重なっているはず。
うずら豆ではなかったんじゃないかな、とは思う。うずら豆なのかな…。
食べること、あるいは食べものを用意したりそこに頭とか体を使うこと…を後回しにしてしまった日に、からだがめちゃくちゃ怒っていた。
エネルギーが足りていないのに、使い続けるものだから、「つべこべ言わずにとにかく栄養」「さっさと食べる」「なによりも食べる」とぎゃーぎゃー頭のなかで言われて、えらいこっちゃと思いながらどんどこ食べた。
からだが怒っていた、としか言いようのない感覚だった。すごい怒ってた。生きるために怒る、という感じだった。
今日もちょっとだけ「もういいかな買い物行くの」と思っちゃった時間があり、でも、いろいろ思い直して、結果チリコンカンに至ったのだった。
きゅうりも食べたかったし、ちょっと探したいものもあった。あと、ハーブティーも切らしていた。
作ってみたいものがいくつかある。材料とか道具が必要だったりする。でも作りたいし食べたいからたぶん作る。
とてもかんたんな話ではあるし、それでもとてもむずかしいとも思う。
ズッキーニを切っていたら色があんまりにもきれいなので、さっきまで暑さで失せていた食欲が段々と出てくる…みたいな日々を繰り返すんだろう。
次はナスだなあ。
さかあがり
つかれはて、はてている。起きてから、しずかに微調整をつづけて、すこしずつ回復してきているのを感じる。
さっき歌集をひらいたら、言葉がからだのすみずみ、あたまのからからになったところまで届いてしみわたっていくのを感じて、脳もやっぱり栄養補給がいるのよね・・・としみじみおもった。
だから書きたい、のか、とも。
淡々と、とか、うけとる、とか、そういった言葉にほっとするところを見ると、今はそういうトーンなんだろう。癒やすとか、…。
いくつかやりたいこともあり、時間はみじかいようでいつだってそこにはきちんとあるので、たぶん、どうにかなっていくだろうと思っている。
前に食べた、ココナッツミルクをつかった優しく甘いデザートと、そのときいっしょに飲んだハーブティーの香りとを思い出すと、そのとき嗅覚や味覚から伝わっていったものへのからだのうれしい反応もよみがえってきて、ちょっとずつ元気になる。
大切にしたいものを守りながら、あたらしいものを手に取り、ときにはふるいものを手放し…というのをしていると、「ああ、こんなところまできた。どうやっても元にもどるというのはないし、かといって、これまでがどうだったということもなくて、今いる場所から過去をジャッジすることはなににもならなくて、単に今がこうであるというだけだ」と、何度も思う。
今とこれからとこれまでを行ったり来たりしながら、今とこれからを真剣に生きるだけ。
書きながら着々と力がたまってきてる。ふしぎなもの。聴いている音楽のおかげもあれば、おもっていたことを目にみえるようにしてあげることでなんとなくひねくれてしまっていた気持ちがまっすぐにしっかりしていくおかげもある。
あいだにちらとひらいた物語のつづきのなかに、「あ」と、タイムリーな内容があって、また安らいでいくのがわかった。しかもぜんぶつながっているかもしれない。
なんということだろう…。
たぶん大丈夫だ、という気がしてきた。ほんとうのところで。
日常がはじまればもちろん、たいへんなことがあり、いいこともあり、またなんだか揉まれて揉まれてときどきぐちゃぐちゃになってしまうこともあるのだけど。
ときどきこうして、気持ちがしっかりしたならば、しかも一旦そうとうにつかれてしまったところからここまでもちあがってきたならば。日が昇って沈んで…また日が昇って、というあまりにも身近すぎるけれど毎日きちんとやってきているそういう流れとおんなじように、自分も生きてゆけるのだと、感じられる。
さかあがり「すきなおやつはドーナッツ」すとんと降りた足がしびれた
茴香
Instagramに投稿しようにも、かじりかけのピーナツバタークッキーの写真しかない。
「20000歩まであとちょっとだったなあ」と思うことがここ一ヶ月に数回あり、今日とうとう20000歩を超えた。だからどうってこともないけれど、「おー」という。午前に10000、午後に10000。間に図書館とかバスとか電車とか、あと、チェーを食べたり(…あれは何屋さんと言えばいいんだ…?中華料理屋さん…?ごはん屋さんというのもカフェというのも喫茶室もしっくりこないのでとにかくチェーを食べたり)して、きちんと休憩もしたのがよかったと思う。ピーナッツバタークッキーも食べた。
チェー、知ったように書いているけど、初めて食べたし、しかも、チェーをベースにして作ったオリジナルの甘味だったみたいなので、実際はチェーじゃないらしい…。
ココナッツが本当に好きだよなぁ、なんでなんだろう。シャリシャリ感も、香りも好き。しばらく忘れていたけど。
目が痛い。サングラス要るかもしれない…。もとから眩しいのがめちゃくちゃ苦手な目なので…。なんか傷がついてるとか何かだったか、なんか割と目、しかも主に右目があらゆる負担を被ってくれてるらしいんだよなぁ。
よく見えてない、みたいなのが割と当たり前?というか、目からの情報に重きを置くことがあんまり…いや、無いことは無いんだけれども…全体の感じをみている、感じている、みたいなところがある。
ふらっと入ったお店に、探していたものが売っていた、ということが今日ころころあり、とてもハッピーだった。え〜っ!という。こんな近くに。
そしてあちこちに吉本ばななさんの本。帰りのバスで読みながら、「あー…さいきんヤな感じしてたのこれかあ」と思った。誰かの事とかではなく他でもない自分のこと。
ふらっと寄ったお店で、手鏡を買った。その絵があまりに好き。それと昨日クレープ食べた後、クリームやチョコが付いていないかしばらく気になって仕方なく、そういう時はスマートフォンのインカメラで確認していたのだけれど、「う〜ん、なんかやだ」と思っていたのだった。
もうすぐ7月らしいね、おお。7かあ。
1月のブログ読んだら、おみくじに気持ちを惑わされているし、年末年始はそう言えばなんだか「けっ」みたいな感じで過ごしていた気がする。
またわかんなくなる日が来るんだろうなー。今日はすっきりしている。それでも、どんなに慎重でも、どれがトラップか気づかなかったり、気づかないフリしちゃったり(たぶん今回はこれ)するんだよなー。
今日のキッカケはあの手鏡だろうと思う。
それでは!
タイトルは何にも関係ない、茴香、ういきょう。えーっと、ファンネル。アニスは西洋茴香。スターアニスは大茴香。スパイス図鑑で読んだ。
ずるり
怒濤だ…とここ数週間思い続けていて、ある日まできてやっと「そうでしかなかった」と思えたけど、最中は「これいつまでこんな感じなんだろうか」「ちゃんと終わるのか、これ」とそわそわしていた。
終わりの兆しはたぶん、あるものをなくしたことだったと思う。いつもだったら見つかるだろうと思う感じのさがし方をしても見当たらなかったし、見つかるまでさがすというのが今回はちがう気がした。本当に本当にさがせば見つかるような感じはするけど、たぶんそれはするべきじゃなさそう、と思った。
一日じゅうできるだけのことをやり、夜になってもなんだか眠るのが惜しく、朝が来ればはやく起きて動きだそうとするので、「ええ、もう少し寝ていてもいいのにさ」と頭のすみほうで愚痴っぽくつぶやきながらまた一日を始める…。眠りは浅いような気がするし、それでいて毎日が濃い。濃いからこそある程度の速度で駆け抜けていくのがよかったのかもしれないが、身体が保たないんではないかとヒヤヒヤしていた。
人に会い、ものを食べ、近いところと遠いところに赴き、大きなものと小さなものを見、しゃべり、黙し。
吉本ばななさんの『N・P』を読んだ。濃厚なスープ、ただ濃いのではなくてあらゆる具材が溶け合って純粋で劇的なスープをゆっくり、食事の時間いっぱいかけて飲んだ気分。
ホラー映画とかみたい、と感じた。ほんとうにそう感じた。得体の知れぬ影がずうっと画面を暗くしている感じが。けど、その影をしょっている人たちのことを思い浮かべたら、あんまりこわくなくって。
そもそもホラー映画を観ないくせに「ホラー映画とかみたい」なんて言っても言葉が軽くなってしまうが、読んでいる最中の心持ちがそうだったのでそうとしか言えない。
ホラー映画が放つ、「取り込まれたらたいへんなことになる」と、びりびり肌で感じる危うさが、文字から伝わってきた感じ。
わたしはそれをまともに浴びる自信がない、もともと映像作品自体にちょびっと距離のある人間というのもある、それで映画はジャンルにかかわらず観る機会が少ない。
これが吉本ばななさんの作品でなかったら読み切れたかしら…と、よくわからない妄想をする。たぶん読み切れていない。10~20作品ほど読んできたから、耐性というか、信頼というかがあったので読めたものの。あとはきっかけとかメンタルの調子にもよるが、今回は勢いでそのへんを乗り切った。
読み切ってからしばらく経って、読み直す勇気、気力はいまのところないけれど、本とか物語っていうのは、「一度その文字やそこから浮かびあがる光景を通った」ということが大きなことで、たぶんすでにわたしが意識していないところで『N・P』を読む前と読んだ後ではちがっていることがあるのだろうし、やっぱりそういう点において吉本ばななさんの作品がすごくすきだと思う。あんなすごさを伝える仕事ができることに憧れる。
映画を観ない観ないと言っておきながら、ここ数日…まあ2・3週間くらいのあいだに、2本映画をみた。
ときどきこうやって観にいけたらいい、と思う。どんなきっかけでもいいから。
慣れない場所に行ってそわそわどきどきするのも、その時にさっと受け渡してもらったやさしさも、やっぱり慣れなかったりあれこれ考えて作り出した所在のなさと、そんなこと関係なく全部を伝えてくる作品と、ひっくるめて「映画を観にいった」という感じだった。
もう1回みたいなあ、と心底おもった。
絵を見に出かける機会も数回あった。ふたつ、別々の展示に、それぞれ2回ずつ訪れた。
ふたつの展示のどちらにも絵の傍らに詩人の存在があって、そういうあり方に興味をひかれている。
けどたぶん、本人たちにとっては、気付けばたまたま辿りついていた位置なのではないかなあ、という気がしている。
ひとりは、今、現役、生きている方で、詩を書かれていて、もうじき詩集も発売される方。その方が、既に亡くなっている画家の方の、没後50年記念の展示の機会に、いくつかの絵に詩や言葉を寄せられていた。
もうひとりは、100年と少し前に生きていた、…と、あちこちに記録とその人の作った詩が残っているからわかるのだけど、あんまり実感がない、実感があるとすれば残っている言葉からのみ感じられる、そのくらい私からすれば「遠い」人なのだけれど、その人。展示には、同じ時代に生きていた人たちの絵と、その詩人の方が絵や画家に対して残した言葉、絵や画家のことを表した言葉の一部も並んでいた。
なんらかの作品について、作った人が生きているとか死んでいるとか、その事実自体がなにかを意味することはあんまり考えにくい、そこで価値判断をしたいとはあんまりふだん思ったことがなく、それよりも作品そのものに触れたいだけではある。
同時に、生死のある人に限らず、「もの」であっても、あらゆる要因で失われてしまう、存在が無くなってしまうと思っているから、それらの作品が現に目の前にあることには本当に驚く。魂をこめるみたいなものなのかもしれない。それを絶やさないようにとしてきた何人もの人間のことを想像して、人間のいとなみが為しうることってほんとうにおもしろくて愛おしいな、と思う。
今回のわたしみたいに、胸を打たれた何人もの人が、「この作品はのこさなくっちゃ…!」と、持てるあらゆる知識や経験や時間やあれこれを注いで、今に至っているだけなんだと思う。
そういう作品に触れながら、たまたま残らなかったものたち、どこかにあったはずの何か、に思いを巡らす。
早春
早春、なのだろうか、今。
ふと思いついた言葉だったのでいちおう簡単に調べてもみた。春のはじめのほう。そうだろうね。
別の場所には「2月から3月にかけて」とある。
うーん。むしろ今は春、はじめというよりももう春、という気持ち。冬ではない。少し前に雪が降ってはいたけど、冬ではない。
暦の上で春が立ったのは2月の初めだったし、3月の下旬の現在からすればそれはもうすでにずいぶん前のことだ。その時はまだ早春でもなかったろう。春を見通すくらいのもの。じきに春が来ますよ、と。まだ冬ですけれどもね、という心地で。
春だ、と言い張りたいけれどももう夏が兆している、と、5月くらいには感じているような気がする。どうなんだろう。
わたしは春がすきだと思う。でも、どうだろう。どうだろう。
寒さのやわらいできた頃はやっぱり素直にうれしい。あたたかな陽気を感じると「春だ!」と思う。
春のびゅうびゅう吹く風は、冬の空気の骨に染みる冷たさとは違って、さわやかさと眠たさとを両方持っている。
春の雨はさらさらで細くって粒というよりも糸で、軽い。傘を差していても顔まわりに雨を感じる。
そういう全部が春で、そういうのを感じているのが楽しいから、春はすきだと言って良い気がする。
さくらのつぼみが膨らんできて、さくらの木の枝の先の影が少し丸みをもつのを、夕方に気が付くのもうれしい。
あっというまに咲いてしまうんだろうか。さくら。
冬の終わりと春のはじめがきっと重なっていたんだろう、気付けば朝がやわらかい空気をまとっていたし、鳥もあちこちで鳴いている。
雪が溶けた道を、山の向こうから昇ってくる朝陽が照らしたとき、あんまりにも眩しくって目を細めるしかなかった。ぴかぴかに光っていた。
日記(ver.タヌキ「願い」)
化けて社会生活を営んでいるんではなかろうか。わたしは実はタヌキ、化かすとしてもキツネではなく、タヌキで、頭に葉っぱをのっけて、ぼわんと化け、人の顔をして「むん」と背筋を伸ばし社会に紛れ込んでいるのでは。
今現在の仕事や、過去のあれこれ。自分の見た景色は記憶に残るが、その景色を見ている自分の姿は自分ではわからず記憶にも残らない。写真に撮ったり文字にして残せば、その形や感情は残るが、わたしがわたしを見ることはないので、「あの時こういう感情だったのは日記にもあるしうっすら覚えているけれど、実際わたしがわたし以外に対してどう動いてそれらがどう受け取られていたのかはわからないな」と思う。
もうここ数年がずっとそんな調子である。いろんなことがありすぎた。
どう見えたいとかどう思われたいとか、ないこともないが、それよりも毎日生き抜くこと、その先々で会いたい人に会い、見たいものを見て、空がきれいだとうれしくなること、しょうもないことで笑って、ごはんを食べて、眠ること。それがいかに尊いことか、みたいなところにぐるんと立ち戻ってくる。
見上げる人たちが見ている世界に追いつきたくて、わたしにだってそういうのわかるはずだと思って、勉強をしたり本を読んだりものを書いたりしているうち、わたしが年齢を重ねれば同じ時代に生きている人もみな年を重ねてしまうのだとようやっと気が付いた。その事実はわたしにとってかなり痛い。30代、40代、50代、60代、…になって会いたい人が、その時にいるかどうかわからない。
いてくれー。話を聞いてほしい。そしてわたしも生きる。死なない。
めそめそしながらタヌキは日記を書いて、ちょっとさみしい気持ちを抱えたまんま寝床に入る。さみしい気持ちは痛いだけではない。わたしの日常にはさみしさの青がにじんでいる。それでも愛おしくて忘れがたい。朝がくればさみしさを抱きしめてくるりと人に化け、今目の前にいる人たちとただただ生活を営む。
ブログ
日本史と、フランス史の、本を読んでいる。
本の表紙をみると反射で「うげー」と思ってしまうくらいには、歴史への苦手意識がある。
それでもさいきんの興味が、和歌であったり、世の中の仕組みに向いていたりするので、そこをほぐしていくにはどうしても歴史が絡んでくる。
めちゃくちゃ面倒なことに、ひとつ苦手に向きあっている最中は、ほかの苦手に手をつけるのがとことん嫌になってしまう。単純に人間ひとりが、わたしひとりが抱えうるキャパシティの問題なのだけれど、そのことに気付いていなかったので、「あー、いろいろ疎かになる~・・・」と、ここのところ気分が落ちていた。
しかも、苦手に向きあうのはそこそこエネルギーを要するので、いつも以上にお腹がすいたり、やたら寝たりする。時間でいえばそんなに長いこと費やしていなくても、脳がすごい疲れているらしく、とにかくすぐ集中が切れる。
やりたくてやっているのでしばらくこんな感じなのだろうなぁ。
ふだんの生活では、苦手なことはそこそこでいいと思っていて、そのなかで気が向いたらなんかいつもと違うことを試しにやってみて、結果なんだか悪くなければいいだろうと思って過ごしている。苦手な部分を他の人が得意だったりするのでそこは任せたり、そのぶん自分が得意なときは出ていったりしているうち、全部ひとりでできなくってもいいんだよな、と最近になって思えるようになった。
他の人にできて自分にできないのくやしい!マインドで生き抜いてきた頃と、そのマインドではいろいろ間に合わなくなった時期とがあっての、今の自分が、どう動いていたら(自他ともに)ハッピーかなというのを探っているなかでの、ひとつのやり方。
ただ、今は、というか少し前から、なにか変えたほうがいいなあと感じていて、そのタイミングでたまたま「日本史!」と思い浮かんだので、しぶしぶやっている。
得意なことばかりに頼っていると、得意なこともだめになる・・・というようなことを、ばななさんが書いていたのが、静かに思い出されてきて、「しんどいなあ、けどやるか・・・」、と思ってやっている。
引用しようかな、と思ったけれど、引用の仕方によってはばななさんの言いたい文脈が伝わらなさそうだし、それはいやなので、気になったひとがいたら、ちくまプリマー新書の『おとなになるってどんなこと?』(吉本ばなな)のなかの、「〈インタビュー〉将来を考える」というところを読んでください。
ちなみにちくまプリマー新書の表紙は一冊一冊、クラフト・エヴィング商會(吉田篤弘さんと吉田浩美さんのユニット)が手がけられています。
(吉本ばなな『おとなになるってどんなこと?』ちくまプリマー新書)
*
絵を見に出かけた。
その方とその絵を知ったいちばん最初のきっかけはわからなくて、2年前に展示をみかけたときにはすでに「なんとなく知ってる」という気分で見ていたような気がする。
誰かが描いている絵だ、絵というのは。それはそうなのだけれど、できあがったものを見るばかりでは、そのことを忘れるし、そもそも気がつかない。誰かが「ぽん」と生み出したもののように思ってしまう。けれど、そんなことはない。
小さい頃からマンガやアニメやキャラクターグッズに囲まれていたわたしよ、それはだれかが作ってくれたものたちだぞ。誰かが、形にしてくれたものたち。
そうして、あちこちうろうろしていたら、そういう絵のほんもの、いわゆる原画が、けっこう身近にある暮らしをしている。原画でない絵ももちろん絵で、原画のほうがいいとかいう話をしたいのではなくて、原画はほんとうにその1枚しかないという点において、それにしか伝えられないものがあると感じる。
その1枚を描くための、描くまでの、時間とか試行錯誤とか、描いたものとか描くのをやめたものとか、描かなかったこととか、そういうのが全部のこるのは、その1枚だけなので、そう思って絵を思い浮かべると、どきどきする。
原画が身近にある暮らしをしている、というのは、そういうどきどきを忘れずに感じていてくれと自分に思っているところがあるので、展示を見に出かけたりしている、という意味。
だれかの作ったものを手に取る・手に取ったとき、思い出す絵本があって、それは『Goldie the Dollmaker/ゴールディーのお人形』という本なのだけれど、その作者の紹介のところにあった言葉がしばらく気になっていた。
「本はだれか人が書いたということを知って以来、私は本を書く人になりたいと思っていました。」
初めてこの箇所を読んだときは、
そりゃそうでしょう、いろいろ、誰かがつくってるに、きまってるのに、「だれか人が書いたということを知って以来」って、どういうこと?
と感じて、でもずっと引っかかっていて、今こうやって絵のことにいろいろ思いを馳せてようやく、少しだけ、ゴフスタインの感じたことに近づいた気がする。
(M.b.ゴフスタイン『Goldie the Dollmaker/ゴールディーのお人形』現代企画室)
*
ここまで書いて頭がじわじわしてる。
なまっているところも実際ある。書くために必要ないろいろが。
書くのは孤独な作業、と『違国日記』にあった。
わたしはその日、その部分を読む日、書いているその瞬間が自分にとってのオアシスかもしれない、と言った。
もう少しだけ言葉を補うと、書いたり、読んだりしているあいだ、ふだんの生活とちがうところに空間をこつこつひらいていっているような感覚があって、その空間を求めて書いたり読んだりしているとき、その空間はオアシスだと感じる。ふっと息ができる。
『違国日記』は、半年くらい前に読み始めて、なんかすきだなあがあちこちに散らばっていて、それからぽつぽつ読み進めている。
今は5巻を読み終えたところ。
槙生(まきお)は小説家で、その槙生が「書くのは孤独な作業」と話していた。
その部分を読んでどきっとした気持ちは、まだ、どういう気持ちだったのかわからなくて、これから自分のなかで何度も咀嚼したり、人に話したりしていくのだろう。
(ヤマシタトモコ『違国日記/Journal with witch』祥伝社)