どどど

だっしゅつ

早春

 

 早春、なのだろうか、今。
 ふと思いついた言葉だったのでいちおう簡単に調べてもみた。春のはじめのほう。そうだろうね。
 別の場所には「2月から3月にかけて」とある。
 うーん。むしろ今は春、はじめというよりももう春、という気持ち。冬ではない。少し前に雪が降ってはいたけど、冬ではない。
 暦の上で春が立ったのは2月の初めだったし、3月の下旬の現在からすればそれはもうすでにずいぶん前のことだ。その時はまだ早春でもなかったろう。春を見通すくらいのもの。じきに春が来ますよ、と。まだ冬ですけれどもね、という心地で。 
 春だ、と言い張りたいけれどももう夏が兆している、と、5月くらいには感じているような気がする。どうなんだろう。
 わたしは春がすきだと思う。でも、どうだろう。どうだろう。
 寒さのやわらいできた頃はやっぱり素直にうれしい。あたたかな陽気を感じると「春だ!」と思う。
 春のびゅうびゅう吹く風は、冬の空気の骨に染みる冷たさとは違って、さわやかさと眠たさとを両方持っている。
 春の雨はさらさらで細くって粒というよりも糸で、軽い。傘を差していても顔まわりに雨を感じる。
 そういう全部が春で、そういうのを感じているのが楽しいから、春はすきだと言って良い気がする。
 さくらのつぼみが膨らんできて、さくらの木の枝の先の影が少し丸みをもつのを、夕方に気が付くのもうれしい。
 あっというまに咲いてしまうんだろうか。さくら。
 冬の終わりと春のはじめがきっと重なっていたんだろう、気付けば朝がやわらかい空気をまとっていたし、鳥もあちこちで鳴いている。
 雪が溶けた道を、山の向こうから昇ってくる朝陽が照らしたとき、あんまりにも眩しくって目を細めるしかなかった。ぴかぴかに光っていた。
 

日記(ver.タヌキ「願い」)

 

 化けて社会生活を営んでいるんではなかろうか。わたしは実はタヌキ、化かすとしてもキツネではなく、タヌキで、頭に葉っぱをのっけて、ぼわんと化け、人の顔をして「むん」と背筋を伸ばし社会に紛れ込んでいるのでは。
 今現在の仕事や、過去のあれこれ。自分の見た景色は記憶に残るが、その景色を見ている自分の姿は自分ではわからず記憶にも残らない。写真に撮ったり文字にして残せば、その形や感情は残るが、わたしがわたしを見ることはないので、「あの時こういう感情だったのは日記にもあるしうっすら覚えているけれど、実際わたしがわたし以外に対してどう動いてそれらがどう受け取られていたのかはわからないな」と思う。
 もうここ数年がずっとそんな調子である。いろんなことがありすぎた。
 どう見えたいとかどう思われたいとか、ないこともないが、それよりも毎日生き抜くこと、その先々で会いたい人に会い、見たいものを見て、空がきれいだとうれしくなること、しょうもないことで笑って、ごはんを食べて、眠ること。それがいかに尊いことか、みたいなところにぐるんと立ち戻ってくる。
 見上げる人たちが見ている世界に追いつきたくて、わたしにだってそういうのわかるはずだと思って、勉強をしたり本を読んだりものを書いたりしているうち、わたしが年齢を重ねれば同じ時代に生きている人もみな年を重ねてしまうのだとようやっと気が付いた。その事実はわたしにとってかなり痛い。30代、40代、50代、60代、…になって会いたい人が、その時にいるかどうかわからない。

 いてくれー。話を聞いてほしい。そしてわたしも生きる。死なない。

 めそめそしながらタヌキは日記を書いて、ちょっとさみしい気持ちを抱えたまんま寝床に入る。さみしい気持ちは痛いだけではない。わたしの日常にはさみしさの青がにじんでいる。それでも愛おしくて忘れがたい。朝がくればさみしさを抱きしめてくるりと人に化け、今目の前にいる人たちとただただ生活を営む。

 

ブログ

 

 日本史と、フランス史の、本を読んでいる。
 本の表紙をみると反射で「うげー」と思ってしまうくらいには、歴史への苦手意識がある。
 それでもさいきんの興味が、和歌であったり、世の中の仕組みに向いていたりするので、そこをほぐしていくにはどうしても歴史が絡んでくる。

 めちゃくちゃ面倒なことに、ひとつ苦手に向きあっている最中は、ほかの苦手に手をつけるのがとことん嫌になってしまう。単純に人間ひとりが、わたしひとりが抱えうるキャパシティの問題なのだけれど、そのことに気付いていなかったので、「あー、いろいろ疎かになる~・・・」と、ここのところ気分が落ちていた。
 しかも、苦手に向きあうのはそこそこエネルギーを要するので、いつも以上にお腹がすいたり、やたら寝たりする。時間でいえばそんなに長いこと費やしていなくても、脳がすごい疲れているらしく、とにかくすぐ集中が切れる。
 やりたくてやっているのでしばらくこんな感じなのだろうなぁ。

 ふだんの生活では、苦手なことはそこそこでいいと思っていて、そのなかで気が向いたらなんかいつもと違うことを試しにやってみて、結果なんだか悪くなければいいだろうと思って過ごしている。苦手な部分を他の人が得意だったりするのでそこは任せたり、そのぶん自分が得意なときは出ていったりしているうち、全部ひとりでできなくってもいいんだよな、と最近になって思えるようになった。
 他の人にできて自分にできないのくやしい!マインドで生き抜いてきた頃と、そのマインドではいろいろ間に合わなくなった時期とがあっての、今の自分が、どう動いていたら(自他ともに)ハッピーかなというのを探っているなかでの、ひとつのやり方。
 ただ、今は、というか少し前から、なにか変えたほうがいいなあと感じていて、そのタイミングでたまたま「日本史!」と思い浮かんだので、しぶしぶやっている。
 得意なことばかりに頼っていると、得意なこともだめになる・・・というようなことを、ばななさんが書いていたのが、静かに思い出されてきて、「しんどいなあ、けどやるか・・・」、と思ってやっている。

 引用しようかな、と思ったけれど、引用の仕方によってはばななさんの言いたい文脈が伝わらなさそうだし、それはいやなので、気になったひとがいたら、ちくまプリマー新書の『おとなになるってどんなこと?』(吉本ばなな)のなかの、「〈インタビュー〉将来を考える」というところを読んでください。
 ちなみにちくまプリマー新書の表紙は一冊一冊、クラフト・エヴィング商會吉田篤弘さんと吉田浩美さんのユニット)が手がけられています。

吉本ばなな『おとなになるってどんなこと?』ちくまプリマー新書

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 絵を見に出かけた。
 その方とその絵を知ったいちばん最初のきっかけはわからなくて、2年前に展示をみかけたときにはすでに「なんとなく知ってる」という気分で見ていたような気がする。

 誰かが描いている絵だ、絵というのは。それはそうなのだけれど、できあがったものを見るばかりでは、そのことを忘れるし、そもそも気がつかない。誰かが「ぽん」と生み出したもののように思ってしまう。けれど、そんなことはない。
 小さい頃からマンガやアニメやキャラクターグッズに囲まれていたわたしよ、それはだれかが作ってくれたものたちだぞ。誰かが、形にしてくれたものたち。
 そうして、あちこちうろうろしていたら、そういう絵のほんもの、いわゆる原画が、けっこう身近にある暮らしをしている。原画でない絵ももちろん絵で、原画のほうがいいとかいう話をしたいのではなくて、原画はほんとうにその1枚しかないという点において、それにしか伝えられないものがあると感じる。
 その1枚を描くための、描くまでの、時間とか試行錯誤とか、描いたものとか描くのをやめたものとか、描かなかったこととか、そういうのが全部のこるのは、その1枚だけなので、そう思って絵を思い浮かべると、どきどきする。
 原画が身近にある暮らしをしている、というのは、そういうどきどきを忘れずに感じていてくれと自分に思っているところがあるので、展示を見に出かけたりしている、という意味。

 だれかの作ったものを手に取る・手に取ったとき、思い出す絵本があって、それは『Goldie the Dollmaker/ゴールディーのお人形』という本なのだけれど、その作者の紹介のところにあった言葉がしばらく気になっていた。

  「本はだれか人が書いたということを知って以来、私は本を書く人になりたいと思っていました。」

 初めてこの箇所を読んだときは、
 そりゃそうでしょう、いろいろ、誰かがつくってるに、きまってるのに、「だれか人が書いたということを知って以来」って、どういうこと?
 と感じて、でもずっと引っかかっていて、今こうやって絵のことにいろいろ思いを馳せてようやく、少しだけ、ゴフスタインの感じたことに近づいた気がする。

(M.b.ゴフスタイン『Goldie the Dollmaker/ゴールディーのお人形』現代企画室)

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 ここまで書いて頭がじわじわしてる。
 なまっているところも実際ある。書くために必要ないろいろが。

 書くのは孤独な作業、と『違国日記』にあった。
 わたしはその日、その部分を読む日、書いているその瞬間が自分にとってのオアシスかもしれない、と言った。
 もう少しだけ言葉を補うと、書いたり、読んだりしているあいだ、ふだんの生活とちがうところに空間をこつこつひらいていっているような感覚があって、その空間を求めて書いたり読んだりしているとき、その空間はオアシスだと感じる。ふっと息ができる。
 『違国日記』は、半年くらい前に読み始めて、なんかすきだなあがあちこちに散らばっていて、それからぽつぽつ読み進めている。
 今は5巻を読み終えたところ。
 槙生(まきお)は小説家で、その槙生が「書くのは孤独な作業」と話していた。
 その部分を読んでどきっとした気持ちは、まだ、どういう気持ちだったのかわからなくて、これから自分のなかで何度も咀嚼したり、人に話したりしていくのだろう。

ヤマシタトモコ『違国日記/Journal with witch』祥伝社

 

 

重力

 

 年末の駆け込み追い込みずっと「なにかやり残したことはない?」「これで気持ちよく新年を迎えられる?」と問い続ける(必要以上の)焦燥感と、年始の勢い清々しさ「今年もよろしくお願いします」「新しい年はもう始まりましたよ」としゃっきり挨拶をしてゆかねばと背筋を伸ばす緊張感とが、ようやく緩められそうで、心底安心している。
 なんかもっとこうしたかった、年末年始。とも思わないでもないけど、年末年始がどうこうだけでなくって、それよりもこれから2024年という1年があるのだし。もちろん2023年にはもう、年末がどうあったって、1年があった。
 たぶん元日にひいたおみくじが小吉で、なんでもかんでも否定形だったのがひっかかってるんだろう。やめてよもう、勘弁してよ、と思ってそそくさとくくりつけた。
 去年の元日にひいたおみくじは吉で、書いてあった文言もすきで、部屋のみえるところに貼って、指標みたいにして過ごしていた。だから今年も、と思ったところがあったのだけれど。
 こうなるような気はしていた。
 年末は年末で、掃除ができなかった。
 今朝になっていろいろと、部屋のなかのものの置き方とかそもそもそれがあることとかが気になり始めて、ためこんでいたものを処分したり、片付けたり、紙もののかけ方を変えたりしていた。
 もともとは、「雨の日は太陽光が足りないので、そういうときのための照明をいつか買えたらいいな。メモしておこう」と、メモしに行っただけなのだけど、気になると模様替えに集中してしまって、結局そのメモはしていない。
 雑食でいたい、なにかをするにはそれで遠回りになったりちょっとわかりにくくなってしまうかもしれないけど、あれこれやってみて今は雑食でいてほしい、と自分に思っているので、もともとの性格もあるけれど、好みがあちこちに散らばっている。
 だから部屋もそういうふうにしていた、のだけど、少しずつ変わってきていて、そのなかでも「ちょっと変えたい」があり、あまりにノイズをそのままにしておくと今度は余計な混乱が増えてしまうので、今日はできる範囲で動かした。
 ああ、そう、これ、気になってたのか、といざすっきりしてみれば気付くし、ひとつ動くとそのまわりも違ってくる。
 そもそも今日そうやって模様替えするに至ったのは、きっと昨日必要があってかけた掃除機と、そのついでによく使うかばんや書類や、年末に届いた箱を片付けたこととで、部屋全体がほんのすこし整ったからだろう。
 それに、昨夜ご飯を食べ終えてから、雑誌を読みたくなって、2~3年前の雑誌を数冊読み返していた。とにかくたくさんの人の服や靴や香水やをざっと見て、見ながら、自分の手元にいまあるものと重ねていた。いつも着ている服、これから着る服、外のこと、内面のこと。
 ひと通り片付けてきりのいいところで、なにもせずに窓の外を眺めていた。なにもしないのがいいな、と思って、そのまま座ろうとしたときに、お香があることを思い出して、引き出しからお香を出して炊いた。
 香の上から下へ熱が伝わってゆくあいだ、煙が細く白くなめらかにのぼっていくのを見ていた。途中あるところで煙がたまって、いっせいにほどけるような様子をみせると、リボンがするするとほどけて地面にたまっていく光景を思い浮かべた。重力。わたしの見慣れているものの動きと逆さまだな、と煙を見て思った。
 今年は辰年。あと閏年
 この時期にこういうことをいうと新年の抱負みたいになるのでそれはちょっと不本意なのだけれど。落ちのない話をしていたい。聞きたい、読みたい。
 ドラマチックじゃないところにある人間の機微を、ときどき知れたらうれしい。

 

新年

 

 

 一年の終わりや一年の始まりに、書くこと…と思うと。そんな。

 「わたし」はぜんぜん特別でない、という感じが強くなっているのに、まわりの人とはひとりひとり決して同じではないとも感じていて、それだから、遠い人も近いし、近い人も遠い。

 わたし、が書くことのできるのは。わたしが、「わたしの感じたこと」として書くことのできるのは、今指を動かしているわたしの体感を通したことだけで、ほかの誰かのことは、わかったような気がすることしかどうしてもできない。

 それでいて時々、「わたし」の輪郭が溶けてしまって、空気とかに混ざってしまったように感じる。けれど、けれど、なにか、例えば電車を降りるだとか、お店の方と話すだとか、なにか動きを返す時には、「わたし」が出てきたり、あるいは「わたし」に頼るしかなくなる。

 どうやったってひとりきりで、それは、誰かへ向かって「何かが伝わればいい」と語りかけたとしても一緒で、誰かから語りかけられたとしても一緒で、そのことに、心臓や胃がきゅっ、となる。

 だからこそ本に安心するんだろうか。「誰か」をかえってはっきりと感じられるから。

 これはわたしでない、わたしは確かにひとりきりだけど、他にいるひとたちもひとりきりで生きてる。いろんなことを思うし、いやなこともあるし、それでも誰かが、勝手に書いていることを読むと、わからないことを教えてもらった気がする。自分もひょっとしてそう思っているのか、実は似ているようで違うのか、近付きたいのか、わかりたいのか、やっぱりわからない。でもこのとき、「誰か」がいる、いた、と強く感じる。

 おなかが空くこととか、ぐらりと心が揺れることとか、そういうのに気付くのは自分しかいなくって、だからなるべく耳を澄ますのに必死だったなぁ。

 簡単に無視してしまえるでしょう。自分のことでも。どれだけ気付かないふりをしてきてたんだろう、と思う。それは、生きるためと、あと、痛いのがいやだから、だったのだけど、たぶんこういうのを無視するんでなくてどうやっていくかというのこそが「生きる」っぽい、と少し前から思って、あれこれやり方を探っている。

 「え〜っ」と思うような、ずっと想像のつかないことばかりだったし、想像のつかないことが身近なところである、遠くなくてもある、遠くにもあるんだろうしいつか遠くも選ぶかもしれないけど、今は近くと近くに遠くからやってくるものに目を凝らして耳を澄ますだけだ、という感じだった。

 これは、特に去年だったから、とかより、それまでのいろいろが連なってそうなった、という感じ。

 不安も予感も抱えて立って、びりびり感じながら生きるんだろうかな。

 誰がどうであっても、書いていられますように。

 

 

 

夢をみるような

 

 気付かぬうちに、左手の中指の、薬指に当たる側の、爪の横あたりが、タテに数mmだけ切れていて、痛いので、軟膏を塗って絆創膏でふたをした。
 痛い、と思ったのは昨日の夕方だったはずで、でもそのときはまだ傷と認められるほど割れておらず、よくわからなかったのと疲れていたのとで忘れてしまった。そのあと何度も、ちくっと痛んでは思い出し、忘れて、じょじょに傷らしくなって、「できれば休みの間に治るといい」と思って、ようやく手当てをした。
 キーボードのキーが、打ちづらい。キーに中指の触れている感覚がなく、キーと中指のあいだに絆創膏があるので、ごつごつしている。

 先週、香水を買った。おそらく夏ごろにほしいと思った香りで、ルームスプレーあるいはファブリックスプレーでもなく、ディフューザーでもなく、どうやってもオードパルファムがよかった。
 ふだんのことを思うと、現実的でない買い物だった。自分が自分で意外で、自分ですらわかっていないところが必要としていて、ちょうど、贈り物の時期でもあるし、買うことにした。
 現実的でない、というのは、夢をみるような、といったほうがよくて、質量のある実体のある本だとか、それも実際電子ではなく紙で、そのほか指輪やなにかのかたちをもとめることの多い自分が、それでいて周りにあるものの気配と溶け合うような時間を過ごしたがる自分が、瓶から出れば気体となり、それでもいつでもその香りを纏うことになる香水を買うというのは、なにかずいぶん、不思議なことのように思えた。
 いっぽうで今あらためて香水というものに対して思いを巡らしてみると、香りであるから、ある種なにか食べものを、特におやつを食べたいと思うことと近く、それでいてまた、本やなにか作られたものは実体があったとしてもそこに実際なにがあるかはわからないわけで、それでもそれらを頼りにしているので、あまり変わらないのか他のものと香水も、と思った。

 むさぼるように、すがりつくように、本を読んでいた時期を、懐かしく感じていた。そのようには読んでいないことが淋しくもあった。
 ふと、そのときと近い感覚が訪れた。
 そのときもそうだったかは知らない、が、今回は「旅だ」と感じていて、心の旅、という短い言葉が浮かんだ。
 どこか遠くに行きたい、あるいは行ってしまいたいけれど、どうしても、それができないとき、ページをめくって文字を目で追う。
 そこに書かれていることがほんとかうそか、たしかめようもないけれど、文字から立ち上がってくるものを感じているあいだ、わたしは確かにそこにいて、そのなかで、かなしみの色や外の空気や人のあたたかさを味わっている。
 ふっ、と何かの拍子に本から顔を上げたとき、目の前の現実では日が暮れているくらいで、苦しみのもとや実際の生活が変わってくることはない。ただそこに、ひとつわたしの知らない景色が差し挟まれる。
 心は自由、ということを、思い出す。

 まだまだ、じゅうぶんにあらわせていない。
 つぶさに見ているようで、ピントが合わない。
 もどかしい。

コゲ

 

 砂糖を焦がした。ので、いちにちじゅう鍋底のコゲを落としている。
 ホーロー鍋のコゲはどうやって落とすんだろう…と、自分で思いついたことをある程度やってから、
「もうこれ以上は埒があかない!」
 という段階になって、ネットで検索をした。
 ホーロー鍋、まで、検索欄に入れたところで、もう続きがでてきてくれた。
「ホーロー鍋の焦げの落とし方」

 人さし指の爪が、コゲに負けて削れているのに気がついた。
 さらにその隙間から、コゲのかけらが入ってくると、めちゃくちゃ痛い。
 コゲ、恐るべし。コゲ、頑固。

 今は、コゲを落とすために鍋に水と重曹(なかったのでベーキングパウダーにしたけど問題なくコゲがとれていっている)を入れて沸騰させたあと冷ましている段階で、かつ、ケーキの焼けるのを待っている時間でもある。

 寒くなると、バターを事前に常温にしておくのにも時間がかかるので、最近はもっぱらオイルでケーキ作りをしていた。作りたいときにすぐ作れるから。
 でも今日は、さつまいもを使ってケーキを作るつもりで、さつまいもと何を組み合わせようかいろいろ考えたものの、今回はシンプルに、オイルをバターに変えることにした。
 焼けているときの匂いが全然ちがう。生地を混ぜているときの重さも違ったし、生地のとろみも違った。

 今まででいちばん、くらい、すきなケーキが焼けた。いちばん、って思ってしまうほど。
 別のさつまいもだとまた別の感じになるだろうからな。今回だけだ。
 バターのパワー。焼けた側面がてりっとぱりっとしている。オイルではこうならない。
 中身によっては、このバターの感じが、くどくなることもあるんだろうし。

 あー、でも、やっぱり、そろそろスパイスのケーキ作りたい。
 バターと、ドライフルーツと、スパイス。かなあ。
 もしも来週ほかに作りたいものがでてきたら、また、変わるだろうけど。

 昨日は本屋さんで本を買うことにしていたので、本、本、と思って動いていた。
 ほしい本があるときは、なんでもある本屋さんにいくのがいいんだろうな、と思った。
 あそこならなんでもある、と思う本屋さんがあって、そこに行った。とても楽しい。
 棚をぐるぐるまわって、文庫本なら作者さんのところを目で追ってはほしいタイトルを探して、なかったら他の出版社の棚へ動いて、…をくり返す。出版社もわかっていれば楽だけれど、まあ、昨日は検索機を使うほど急いでもなかったし、スマートフォンを取り出して調べるとしたらまあ、ひと通り見てからだな、と思っていたら見つけた。川上弘美さんの『大きな鳥にさらわれないよう』。
 去年の秋に、ちょっとしたきっかけで、少しだけ読んで、そのときは、他の本もちょっとしたきっかけがあってそちらを買っていた。少しだけ読んだだけなので、断片的な印象しかなかったものの、「これはなんだろう、すごく不思議な話…」と思っていた。
 文庫を見つける前に、ふっ、と、「雑誌は…」と棚を見上げてみたら、ブドウの表紙が目に入って、あ、と手に取った。ほしかった、「スピン」。最果タヒさんの詩が載っている。
 あとひとつは別の場所にあるはずなので、フロア内で大きく動く。その途中にも、積まれた本にちらちらと目をやる。今思い出そうとしても思い出せないけれど、もしも次にどこかの本屋さんで同じ、少し気になった本を見つけたら、思い出すだろう。それで、買うこともあるかもしれない。
 詩とか短歌とか、韻文とくくったらいいのか、そういう棚にたどり着いて、背表紙を眺めて「ほんとうにいろんな方の作品がそろっているな」と思いながら、めあての『恋できみが死なない理由』をみつけた。これも最果タヒさんで、こちらは詩ではなく、いわゆるエッセイにあたる文章が集まっている。
 タヒさんのエッセイは、エッセイだから、書いた人の温度があるのだけど、それでいてとても遠くもあって、その遠さはあまり気にならない、遠くても今その言葉は手元の本にあるし、という気分になる。どれだけエッセイを読んでも、タヒさんの実像は結ばれず、それがかえって心地いい。

 コゲは結局落ちきっていなくて、なんなら他の指の爪も少し削れてしまった。
 時間がやたらかかってしまって、少し心が荒れている。めんどうだな、と思う。
 この文章を書いている間に、スープを火にかけていたのだけど、気持ちよく書いていたらそのことを忘れていて、何をやってるんだろう、とざわざわした。
 書くネタにもなるし、コゲの落とし方も学べたし、とか、そんなさっくり切り替えられず、おもしろがっている自分もいるものの、やっぱり、うまくいかないのはつらい。
 仕方ないので、日記を書いて、本でも読む。コゲは明日、重曹を買ってきて続きをする。
 今日のうちにぜんぶをやろうとした、今日や明日とかそのまた未来の話をしたくなったけど、これ以上書くと大変なので、今日はここまで。

 

 

追記:

 寝る前に鍋をみたら、コゲが勝手に剥がれてきてて、残ったコゲはかわいいものくらいになってた。ほっとして笑いました。

 ホーロー鍋、大事に使ってるから、すごいどきどきした。それでもまたキャラメルは作る。