どどど

だっしゅつ

日記(ver.タヌキ「願い」)

 

 化けて社会生活を営んでいるんではなかろうか。わたしは実はタヌキ、化かすとしてもキツネではなく、タヌキで、頭に葉っぱをのっけて、ぼわんと化け、人の顔をして「むん」と背筋を伸ばし社会に紛れ込んでいるのでは。
 今現在の仕事や、過去のあれこれ。自分の見た景色は記憶に残るが、その景色を見ている自分の姿は自分ではわからず記憶にも残らない。写真に撮ったり文字にして残せば、その形や感情は残るが、わたしがわたしを見ることはないので、「あの時こういう感情だったのは日記にもあるしうっすら覚えているけれど、実際わたしがわたし以外に対してどう動いてそれらがどう受け取られていたのかはわからないな」と思う。
 もうここ数年がずっとそんな調子である。いろんなことがありすぎた。
 どう見えたいとかどう思われたいとか、ないこともないが、それよりも毎日生き抜くこと、その先々で会いたい人に会い、見たいものを見て、空がきれいだとうれしくなること、しょうもないことで笑って、ごはんを食べて、眠ること。それがいかに尊いことか、みたいなところにぐるんと立ち戻ってくる。
 見上げる人たちが見ている世界に追いつきたくて、わたしにだってそういうのわかるはずだと思って、勉強をしたり本を読んだりものを書いたりしているうち、わたしが年齢を重ねれば同じ時代に生きている人もみな年を重ねてしまうのだとようやっと気が付いた。その事実はわたしにとってかなり痛い。30代、40代、50代、60代、…になって会いたい人が、その時にいるかどうかわからない。

 いてくれー。話を聞いてほしい。そしてわたしも生きる。死なない。

 めそめそしながらタヌキは日記を書いて、ちょっとさみしい気持ちを抱えたまんま寝床に入る。さみしい気持ちは痛いだけではない。わたしの日常にはさみしさの青がにじんでいる。それでも愛おしくて忘れがたい。朝がくればさみしさを抱きしめてくるりと人に化け、今目の前にいる人たちとただただ生活を営む。