どどど

だっしゅつ

『西の魔女が死んだ』/『物語のあるところ』

 

 

 

 『西の魔女が死んだ』、中学生で読んだときはどう感じたろう。もう覚えてなくて。

 

 本を読むこと自体がなかなか重く感じていたところに読んだからか、今回、あまりすっきりと読めなかった。

 毎日一冊を目標に読んでいると、読み終わるかどうかそわそわしたり、どうやっても読みきれなかった時にもやもやしたりする。割り切って翌日読み始めれば、すいすい進み、そうなると、毎日一冊でなくたっていいんじゃないか?と根っこから揺らいでくる。

 それできのうは、『アルジャーノンに花束を』を読み始めてみたが、そのまま読み進めることはしないことにした。

 

 ひょっとすると、おやつに食べたスーパーの100円のエクレアが、物語とちぐはぐに感じられて、身の置きどころがわからなくなってしまったのかもしれない。

 

 今、わたしの頭の中には、短期間で読んで出会った人たちや知った事柄がぎゅうぎゅうにつまっている。それらはそれぞれに抱えている大きなものがあって、本の見た目でははかりきれない広がりをみせる。

 ときどき例えられるように、そう、本はたしかに扉のようなもので、それを読むということは、今目の前にある生活ではないところへ出かけていくことになる。そう言える。

 また同時に、本のむこう側には必ず「書いた人」がいて、そうなると読むことは、その人と本を通じて出会い、話をし、考えを知ろうとし、本を閉じればその場では別れる…ということでもある。

 これらを短い時間で何度も繰り返していれば、それは、すこし疲れてしまうものだ。どんなにその本がおもしろくても、どんなに書き手が丁寧に書いても、読み手が疲れていては、見逃したり、受け止められなかったりする。

 

 たくさん本を読む、のは、このあたりにしておこう。そして深呼吸。

 

 朝の日陰は涼しい風が吹き、きゅっ、と淋しさが通る。秋の気配。

 秋も冬も、どちらかといえば待ち遠しく思っているのに、淋しさを含んだ季節と身体が覚えているのだろう。その、きゅっ、だ。

 

 たくさん読むのはやめたけど、気が向けば、手が伸びるのなら、もちろん本を読む。

 

 あとは…。