どどど

だっしゅつ

新年

 

 

 一年の終わりや一年の始まりに、書くこと…と思うと。そんな。

 「わたし」はぜんぜん特別でない、という感じが強くなっているのに、まわりの人とはひとりひとり決して同じではないとも感じていて、それだから、遠い人も近いし、近い人も遠い。

 わたし、が書くことのできるのは。わたしが、「わたしの感じたこと」として書くことのできるのは、今指を動かしているわたしの体感を通したことだけで、ほかの誰かのことは、わかったような気がすることしかどうしてもできない。

 それでいて時々、「わたし」の輪郭が溶けてしまって、空気とかに混ざってしまったように感じる。けれど、けれど、なにか、例えば電車を降りるだとか、お店の方と話すだとか、なにか動きを返す時には、「わたし」が出てきたり、あるいは「わたし」に頼るしかなくなる。

 どうやったってひとりきりで、それは、誰かへ向かって「何かが伝わればいい」と語りかけたとしても一緒で、誰かから語りかけられたとしても一緒で、そのことに、心臓や胃がきゅっ、となる。

 だからこそ本に安心するんだろうか。「誰か」をかえってはっきりと感じられるから。

 これはわたしでない、わたしは確かにひとりきりだけど、他にいるひとたちもひとりきりで生きてる。いろんなことを思うし、いやなこともあるし、それでも誰かが、勝手に書いていることを読むと、わからないことを教えてもらった気がする。自分もひょっとしてそう思っているのか、実は似ているようで違うのか、近付きたいのか、わかりたいのか、やっぱりわからない。でもこのとき、「誰か」がいる、いた、と強く感じる。

 おなかが空くこととか、ぐらりと心が揺れることとか、そういうのに気付くのは自分しかいなくって、だからなるべく耳を澄ますのに必死だったなぁ。

 簡単に無視してしまえるでしょう。自分のことでも。どれだけ気付かないふりをしてきてたんだろう、と思う。それは、生きるためと、あと、痛いのがいやだから、だったのだけど、たぶんこういうのを無視するんでなくてどうやっていくかというのこそが「生きる」っぽい、と少し前から思って、あれこれやり方を探っている。

 「え〜っ」と思うような、ずっと想像のつかないことばかりだったし、想像のつかないことが身近なところである、遠くなくてもある、遠くにもあるんだろうしいつか遠くも選ぶかもしれないけど、今は近くと近くに遠くからやってくるものに目を凝らして耳を澄ますだけだ、という感じだった。

 これは、特に去年だったから、とかより、それまでのいろいろが連なってそうなった、という感じ。

 不安も予感も抱えて立って、びりびり感じながら生きるんだろうかな。

 誰がどうであっても、書いていられますように。