どどど

だっしゅつ

ブログ

 

 日本史と、フランス史の、本を読んでいる。
 本の表紙をみると反射で「うげー」と思ってしまうくらいには、歴史への苦手意識がある。
 それでもさいきんの興味が、和歌であったり、世の中の仕組みに向いていたりするので、そこをほぐしていくにはどうしても歴史が絡んでくる。

 めちゃくちゃ面倒なことに、ひとつ苦手に向きあっている最中は、ほかの苦手に手をつけるのがとことん嫌になってしまう。単純に人間ひとりが、わたしひとりが抱えうるキャパシティの問題なのだけれど、そのことに気付いていなかったので、「あー、いろいろ疎かになる~・・・」と、ここのところ気分が落ちていた。
 しかも、苦手に向きあうのはそこそこエネルギーを要するので、いつも以上にお腹がすいたり、やたら寝たりする。時間でいえばそんなに長いこと費やしていなくても、脳がすごい疲れているらしく、とにかくすぐ集中が切れる。
 やりたくてやっているのでしばらくこんな感じなのだろうなぁ。

 ふだんの生活では、苦手なことはそこそこでいいと思っていて、そのなかで気が向いたらなんかいつもと違うことを試しにやってみて、結果なんだか悪くなければいいだろうと思って過ごしている。苦手な部分を他の人が得意だったりするのでそこは任せたり、そのぶん自分が得意なときは出ていったりしているうち、全部ひとりでできなくってもいいんだよな、と最近になって思えるようになった。
 他の人にできて自分にできないのくやしい!マインドで生き抜いてきた頃と、そのマインドではいろいろ間に合わなくなった時期とがあっての、今の自分が、どう動いていたら(自他ともに)ハッピーかなというのを探っているなかでの、ひとつのやり方。
 ただ、今は、というか少し前から、なにか変えたほうがいいなあと感じていて、そのタイミングでたまたま「日本史!」と思い浮かんだので、しぶしぶやっている。
 得意なことばかりに頼っていると、得意なこともだめになる・・・というようなことを、ばななさんが書いていたのが、静かに思い出されてきて、「しんどいなあ、けどやるか・・・」、と思ってやっている。

 引用しようかな、と思ったけれど、引用の仕方によってはばななさんの言いたい文脈が伝わらなさそうだし、それはいやなので、気になったひとがいたら、ちくまプリマー新書の『おとなになるってどんなこと?』(吉本ばなな)のなかの、「〈インタビュー〉将来を考える」というところを読んでください。
 ちなみにちくまプリマー新書の表紙は一冊一冊、クラフト・エヴィング商會吉田篤弘さんと吉田浩美さんのユニット)が手がけられています。

吉本ばなな『おとなになるってどんなこと?』ちくまプリマー新書

 *

 絵を見に出かけた。
 その方とその絵を知ったいちばん最初のきっかけはわからなくて、2年前に展示をみかけたときにはすでに「なんとなく知ってる」という気分で見ていたような気がする。

 誰かが描いている絵だ、絵というのは。それはそうなのだけれど、できあがったものを見るばかりでは、そのことを忘れるし、そもそも気がつかない。誰かが「ぽん」と生み出したもののように思ってしまう。けれど、そんなことはない。
 小さい頃からマンガやアニメやキャラクターグッズに囲まれていたわたしよ、それはだれかが作ってくれたものたちだぞ。誰かが、形にしてくれたものたち。
 そうして、あちこちうろうろしていたら、そういう絵のほんもの、いわゆる原画が、けっこう身近にある暮らしをしている。原画でない絵ももちろん絵で、原画のほうがいいとかいう話をしたいのではなくて、原画はほんとうにその1枚しかないという点において、それにしか伝えられないものがあると感じる。
 その1枚を描くための、描くまでの、時間とか試行錯誤とか、描いたものとか描くのをやめたものとか、描かなかったこととか、そういうのが全部のこるのは、その1枚だけなので、そう思って絵を思い浮かべると、どきどきする。
 原画が身近にある暮らしをしている、というのは、そういうどきどきを忘れずに感じていてくれと自分に思っているところがあるので、展示を見に出かけたりしている、という意味。

 だれかの作ったものを手に取る・手に取ったとき、思い出す絵本があって、それは『Goldie the Dollmaker/ゴールディーのお人形』という本なのだけれど、その作者の紹介のところにあった言葉がしばらく気になっていた。

  「本はだれか人が書いたということを知って以来、私は本を書く人になりたいと思っていました。」

 初めてこの箇所を読んだときは、
 そりゃそうでしょう、いろいろ、誰かがつくってるに、きまってるのに、「だれか人が書いたということを知って以来」って、どういうこと?
 と感じて、でもずっと引っかかっていて、今こうやって絵のことにいろいろ思いを馳せてようやく、少しだけ、ゴフスタインの感じたことに近づいた気がする。

(M.b.ゴフスタイン『Goldie the Dollmaker/ゴールディーのお人形』現代企画室)

 *

 ここまで書いて頭がじわじわしてる。
 なまっているところも実際ある。書くために必要ないろいろが。

 書くのは孤独な作業、と『違国日記』にあった。
 わたしはその日、その部分を読む日、書いているその瞬間が自分にとってのオアシスかもしれない、と言った。
 もう少しだけ言葉を補うと、書いたり、読んだりしているあいだ、ふだんの生活とちがうところに空間をこつこつひらいていっているような感覚があって、その空間を求めて書いたり読んだりしているとき、その空間はオアシスだと感じる。ふっと息ができる。
 『違国日記』は、半年くらい前に読み始めて、なんかすきだなあがあちこちに散らばっていて、それからぽつぽつ読み進めている。
 今は5巻を読み終えたところ。
 槙生(まきお)は小説家で、その槙生が「書くのは孤独な作業」と話していた。
 その部分を読んでどきっとした気持ちは、まだ、どういう気持ちだったのかわからなくて、これから自分のなかで何度も咀嚼したり、人に話したりしていくのだろう。

ヤマシタトモコ『違国日記/Journal with witch』祥伝社