どどど

だっしゅつ


 

 

 ホームで電車を待っている間、ふと、
「あらゆることが、確かに過ぎ去っている」
 とよぎった。
 具体的になにかを、思い浮かべてはいなくて、今ひとりの人間として、着実に時間は過ぎていると実感した。
 それは、ふだん使っているタオルを、何かの拍子でじっと見つめて、例えばぼんやりダイニングの椅子に座っていたら物干し竿にかかっているのが目に入って、
「ずいぶんくたびれてきたな、まだ使えるだろうけど、そういえばいつから使っていただろう」
 と、あいまいな記憶を辿っていくときの、あの感じに似ている。

 

 やりきれない、と思う。
 身近なちいさな出来事から、はるか遠くで起こっているらしい、あまりに大きな現実まで。やりきれない、と思いながら、自分の身の回りほんのすこしの範囲を生きていく。
 生きれば生きるほどに、自分がいちどにできることの少なさを知る。
 少なくて、手のひらに目をやる。
 自分ひとりぶんは、このくらい。
 そうして、少なさを知るけれど、その少ないことですら実はすべてやりきっていないのかもしれない。
 あるいは、実際に本当に少ないけれど、そのずっと向こう側に、流れていくことがあるのかもしれない。
 それならばむやみに大きく見せたり大きなものを借りてきたりしなくてもいいか。
 そうしてなるべく、今目の前にあるものを、鮮やかに、こまやかに、深いところまで、とらえられたらいい。

 

 ”garnet”という英単語が、あるいはフランス語であれば”grenat”が、指すのはあの石かあるいはその石の色なのだけれど、日本語にするときどの表記にするかで、すっかり印象が変わってしまう。
 ガーネット、ザクロ石、ざくろ石、石榴石、柘榴石。
 もしもあえて「ざくろ石」と表記した場合、その、あえて「ざくろ」とひらがなにしたことは、どうやったら英語やフランス語で伝えられるんだろう。

 

 今朝散歩に出かけようと通りに出た時、右耳のイヤリングが落ちてしまいそうな揺れ方をしたので、立ち止まってねじを締めた。
 なんとなく、耳たぶがいつもより薄く感じた。
 今はもういつもの厚みに戻っている。