どどど

だっしゅつ

「つくりごとのキャンディ」

 

 

 展示をみに出かけました。むずかしく考えずに、おもったことを残しておくことにします。おもったこと、なので、主体は鑑賞者である「わたし」です。客観的なおはなしは今回できない気がします。あしからず。

 

 気づけば文字がすきでした。というか、居場所でした。漢字をていねいに書いたり、たくさん覚えたり、食べもののパッケージの表示を読んだり(100g"あたり"を見ては、「なにが当たりなんだろう?」とおもってた)。それでいま、目下のほしいものは、広辞苑です。でっかい、なんでも載ってそうなやつ。もちろん、知識が…とか、勉強が…とかの悩み倦みからきてるところもあるけれど、それよりも説明のつかないかんじで「広辞苑ほしいなぁ」とおもっている。

 その広辞苑が、青く染まっていて、比喩ではなくほんとうに染まっていて、目をぱちくりしてしまう。

 コーヒーやお茶をこぼしたら、紙は茶色く染まるし、それはそうだ、紙の束なら色がついてもおかしくないんだ、けれどもおどろいてしまうしついつい頁をめくりたくなってしまう。

 もし広辞苑をてにいれたら、わたしのもあんなふうに青くなってほしい。

 

 布でできた本は、海がそのまま本になったような、しかもその海は深くて、深いところを写しとっていて、海のいきものがよく知っている風景なのかもしれなくて、だからかえってわたしには馴染みがなくて、未知でした。

 海のなかでは紙の本じゃやぶけてしまうから、布の本がちょうどいいのかもしれない。風がめくるのと同じように、水の流れが波が本をめくっていくのかもしれない。

 もしも海へ出かけることがあったら、うきわでもパラソルでもなくってあの布の本を持っていきたい。

 

 ころころ、まるいキャンディ。きっとあまくてやさしくてなつかしい。

 布の本の上を無造作にころがっていて、それをひとつ選んで持って帰ってきたことをおもうと、あれはだれかひとりひとりなんだろうかな。ひと粒ずつ。ひろい海に浮かんでいた。そうなると、時間を巻きもどして、どこに誰がいて、どう漂っていたのかを見てみたくなる。

 いつかあのキャンディを秘めた誰かと、街でであうことがあったなら、というか、そう遠くない日にそういうことがありそうな気がする。そうなったときわたしは、とても勝手だけどほんの少し気を許してしまうかもしれない。

 

 日々を過ごすうちあいまいになってゆく色彩や輪郭を、たしかめるようにして、忘れてしまっていることに悲しみながら、なんとか手繰りよせて、ときどきなにを手繰っているのか手繰ることに意味があるんだろうかわからなくなって、そうして押しよせては引いてゆく波間に今日のような時間をはさみこむことができれば、また少しの間、歩みがしっかりするだろう。

 布だから?金属だから?焼きものだから?絵だから?…それぞれのちがいもあり、それ以前に作るひとのちがいもあり、さらに作ったときのちがいもあり、その場のちがいもあり、うけとるわたしのこころやからだのちがいもある。から、いつでもとても迷っているし、どきどきする。ずきずきする。このどきどきも、ずきずきも、誰かと生きている証だと感じます。きっと、作っているひとも、作っているひととわたしの間にいるひとたちも、少なからずどこかでどきどきずきずきしている(いた)のだろうし。

 展示をみに出かけては、「いったいなんだったんだろう?」と全体をぼんやり捉えなおそうとしています。展示ってなんだろうな、今回の展示はなんだったんだろう。それをみにいきたいってどういうことだろう。いつだってよくわからないと言えばよくわからないけれど、ひとつ、「わたしではない誰かが生きていることに関心をもつこと」につながっている気がしました。もちろん、純粋なたのしみや癒しでもあるから、ほんとに、ひとつの側面というだけですが。

 

 夏、すきになりたくてがんばってみたけど、どうも苦手なようだ、いや、苦手だ!と気づいた日でした。わたし夏苦手だったんだな。

 

 

7/27 追記

 夏の暑さは消耗するからにがてだけど、せみの声や雨あがりの浄化されたような空気と空の色や、すきなものもたくさんあると気がつきました。