どどど

だっしゅつ

『哀しい予感』/『はーばーらいと』

 

 本を読んでいる日々のことを書き留めたく、書きます。ほかのことをするよりはこれをしたほうがいいな、と思って書いています。

 その本を薦めたいとか、わたしの考えがよい/わるいとか、そういうところに軸は置いていません。ただ書きます。

 

 

 

 

 ふー…と手が伸びた。本のすべてがちょうどよかったんだろう、文庫(ちいさくてうすい)で吉本ばななさん(何冊も何回も読んできた)で『哀しい予感』ときた…。

 主人公が19歳、そこそこ年下で、ちょっともうわたしの感覚とはずれているかもしれない、と一度は本を棚にもどして書店をぐるり一周した。が、その日買って帰って読むのはこれだな、という気になったので、もう一度手に取りレジへ向かい、電車待ちと電車のなかでさっそく読み始めた。その日のうちに読み終えた。

 

 先々月末、『はーばーらいと』が出版されて、世に出てほやほやのタイミングで手にした(そういえばこの2冊とも同じ本屋さんで買っている)。

 『はーばーらいと』を読み終えて以来、すこし、ばななさんの本が読めなくなった。

 

 考えてみれば、これまで読んできたばななさんの本は、だいたい文庫化されているもの(≒出版からは月日が流れているもの)が多かった。描かれている人やものや事柄はどこか遠く、文庫であるがゆえに手のひらにおさまり、全体を俯瞰でみているような感覚で読んでいた。過去のことから学んだり、ちょっとした奇跡に癒されたり、それくらいの温度感。

 唯一、『ミトンとふびん』は、出版されて割とまもなく手に取った。繰り返し繰り返し読む大切な一冊になっている(装丁も短編集であることも舞台も登場人物たちももちろんお話もとても好き)が、初めて読んだ時は「これはエッセイ集?…いや、ちがう。混乱しているな…」となっていた記憶がある。

 

 『はーばーらいと』は、ハードカバー、1ページにつき最大560字× およそ150ページなのでざっくり7万字〜8万字ほど(いま手元で数えた)。発売前から「新刊が出る」とインターネット上でみていた。

 読んでからひと月は経った今だからおもうけれど、やっぱりできたては、濃くて、エネルギーがものすごい。そりゃあばななさんをはじめ沢山のひとの手でできあがっているものなので当然なのだけれど、あまりにもダイレクトだった。本と接する時は大体、時間軸のずれていることが多かった(このこと自体、今回初めて気がついた)ために、リアルタイムだとこれほど鮮やかで衝撃が大きくて、(これはひょっとしたらわたし個人の状態かもしれないけど)くらくらするのだとびっくりしていた。

 それで何が起こったのかまだわかってないし、ほかにも要因がさまざまあるような気はするけれど、しばらくばななさんの本が手に取りづらくなった。

 ここ数年頼りにしてきた本に手が伸びなくなったこと、それがまたさらなる混乱のもとになっていた。ばななさんの本たちは自分の温度をはかるひとつのものさしだったし、道しるべとまではいかないまでも今向いている方向にそのまま進んでもよさそうか探る手がかりでもあった。

 あまりにもきびしい。あまりにもうつくしい。今の時代を、わたしは、こんなふうに生きられるだろうか?この、まちがいなく「わたし・自分・〇〇(自分の名前)」が抱えている感情やあらゆるものを、そのとおりにあるべき形で出したり出さなかったりできている/できるだろうか。思い浮かぶひとたちに対して、どう接してゆけるんだろうか。

 ざばっ と、思いきり波にのまれて、息ができなくなる、それがいちばんこの、感覚に近い。

 

 なんだってこんなきびしいことが描かれた本たちを好き好んで読んでいたんだろう?と不思議に感じていたところに、『哀しい予感』を読んで、なんだ、とおもった。簡単なことだった。たしかにきびしいけれど、そのきびしさの傍らにはいつもきらきらと眩い現実もかならずあった。

 そのきらきらが沁みてきてうれしくって、ようやくまた『はーばーらいと』を手に取った。そうすると、ひと言や一文に宿されたものが、そのまま見えてきた。この間はほんとうに、激流のなかで、それこそが現実の時の流れではあるのだけど、それでたくさんのことを見落として苦しくなったんだなぁ、と感じた。

 ひとつ大きかったのは、ばななさんの書く恋を読んで、「そうだこれが好きだったんだよな」と思い出したこと。あらゆるときめきが提示される世の中で、わたしにとって居心地のいい恋。背伸びもせず、否定もせず、あらゆる生活のなかでそういった感情が当然のものとして扱われてる。

 あとは、わたしが勝手に塗りかためてきた「いいひと」の潔癖なまでのイメージが崩された。それでいて、その物語のなかにいる人たちはその人たちなりの筋の通った幸せを求めることを諦めずにいて、その様子は、生きることについてじゅうぶんであって、そこに癒された。

 

 そういう面を期待したうえで『はーばーらいと』を読んだから、苦しんだんだろうな、と思った。そういう面だけではないから。

 

 

 

 まとめたくないなぁ、まとめようがない、ただただ「またばななさんの本が読めそうだな、よかったよかった」という気持ちだけ。

 立秋という言葉によろこびながら八月ののこりを過ごします。夏は胸をはってないといけない感じがするのでどきどきする。暑さを理由にごろごろしてていことにしたい。それで秋がきたら風をほほに感じながらゆっくり歩いて色の変わってゆく景色や風のにおいを染みこませてやわらかく過ごしたい。

 やっぱり、じぶんの未熟さはものすごく感じるし、至らないところで結局じぶんも苦しんでる感じがするから、あー、そこはもっとどうにかしたいです。

 すっ、と言葉が届くようにしたい。