どどど

だっしゅつ

『あとは切手を、一枚貼るだけ』

 

 

 夏のあいだにいろいろ読んでみよう(読み返してみよう)の試み。

 こういうのをやるたびに「本を読むっていったい…?」とか「(…はっきりした感情をもとめてしまって。ほんとうはもっと時間をかけて読むべきなのかもしれない)」とか、悩みや悔いに近い感情が浮き上がる。

 

 

 うーん、うーん。

 なにの意味をもつとかそういうことを外に置いて、ただ、ただ、「言葉が並んでいるさまがすきだ」と思えて、「もしもその文章に意味があるとするなら、それを読むことにのみ意味がある」としか言えない、そういう読みものがある。

 今日読んでいた『あとは切手を、一枚貼るだけ』も、そういう側面があった。少なくとも私にとっては。

 よくわからないけど読んでいたい、と思う漫画が家に二冊はあるし、詩集や歌集もそれに近い。文字数の多少や絵の有無はあれど。私の一部分はそういう「無意味」がもつ深い色に惹かれている。

 

 わからない、を、わかりたい、という気持ちもあって、一方でその欲求がすっきりと満たされてしまえばそこですべて終わってしまう淋しさも予感する。

 どうしても「なにか特別な秘密を読み取りたい」と前のめりに、見ようによっては下品に、読んでしまうときがある。「今日中に読み切りたい」とむやみに期限を設けてしまったときとか。

 わかりたいとか読み取りたいとか、けれど終わってほしくないとか、ほんとうに勝手だなぁ。そこにその作品があるのだからそのままに読みなよ、と思う。

 これは「読書」という行為そのものへさっき感じたこと。ひるがえせば私が書きうるものへの道ともいえる。

 

 あまりにも深く沈んで読んでいた。『多崎…』でも感じたことだけれど、まだまだ読むべきものがある。

 

 それと、まだまだ肌で感じたい時がある。

 本を読んでいる間は、私がふだんどんなふうに体を動かし、言葉を発して、どんな選択をして生きているか、(考えることはあっても体は実際には動いていないから)忘れていっている。体の感覚はむしろ登場人物に寄り添っている。

 けれども、私は今、本の中とはまったく別の「現実」を生きている。どれだけ本を読んで中断されようと、私が生きているあいだは、目の前の「現実」に戻ってくる。…すこししんどい言い方だけれど。

 

 ひと続きのはずの現実が、何度もリセットされたようにして私は動いているなと自分で感じるところがあって、それはひょっとしたら生き延びるために設けている読書の時間によるものなのかもしれないなと思った。不自由ではあるけれど。

 

 また、読みかえさなくては。

 初めて読むときの時の進みの遅さ、じれったさは、その時にしかなく、その時にしか味わえない「未知」が必ずある。

 読みかえすときにもまたじれったさは伴うが、その傍らには「既知」があって、だからこそようやく見えるものと、もう見失ってしまったものとがある。膨らんでゆく想像とか。

 読みかえすときにようやく見えるそれは、いわゆる伏線とかそういうものだけではない、はず。それが何かわからないから、読みかえしてみる。