どどど

だっしゅつ

『銀河鉄道の夜』/『破局』/『母影』

 

 

 

 

 読んだ本をタイトルにしてはいるものの、書評とも感想ともなんともとれない内容を書いてきてますし、たぶん今回もそうです…。

 

 

 『銀河鉄道の夜』、表題作ほかいくつか収録されている、児童向け文庫版で読む。本棚にあったから。

 表題作以外は読んでいなかったのかも。表題作も、あまり覚えていなかったけれど、鳥捕りの箇所は読めば読むほど「そうだった気がするな…そうやんな甘いってそういえば…」となった。

 ただ、本をひらいて早い段階で、「教え、っていう感じがする…」「たしかに星や花が頻繁にでてきているのだけど、わたしがよく読んでいる文章とはなにかが違うなぁ」と感じた。

 ぺらっと裏表紙カバー内側(そで?)の著者紹介を読んだら、「文筆による大乗仏教の布教を決意」などとあって、それでかー、となった。

 ちょっとは、「うげー」となってしまったのも事実、だけど。そうか、そういう側面もあって当然だよな、とおもった。

 ほかにもいろいろざくっ、と思うところはあるものの、こういうところに書いて残せるものではないし、手元のノートにメモするに留める。

 児童向け文庫本じゃない形で読んだら感じ方変わるかなー、とか、他の童話や詩もよんでみたいなー、とおもってる。

 

 

 一回読んだときの印象が強烈で、そのあと読む気になりづらい本がたまにあって、『破局』もそれだった。夏休みに読む本、として本棚から取り出した本たちには、まだ数冊そういうのが混じっていて、正直その本たちには手が伸びづらかった。

 昨日か一昨日読みはじめたときも「そう、こういう、書き方だった」となって、こちらは「ぐえー」となっていた。なんというか、前回読んだときの混乱というかぐるぐる加減を思い出してそうなった。

 「そーんな、ぐえー、って、この本を毛嫌いするのは、なんかちがうな」と、読み終わったときに思った。

 まだまだよくわかんないな、とは思ってる、「こういう形の作品があるのか…」と飲み込み方をアップデートしている最中。

 読み味はきついし、じゅうぶんこわかったりきもちわるかったりする。ただ、語り手に起こっていることを、それを傍観するのではなくてあくまでずっと主観で描かれていて、だからこそ、「あっ、このきもちわるさ、こわさ、知ってる、同じではないかもしんないけど近いのを感じる」とすこし、ほっとした。

 人間がもともともってて不思議じゃないはずの、むちゃくちゃさが、生々しく現実を超えない程度に描写されてる、のだとおもう。

 これ読んで「ほっとした」とか、前だったら言えなかったけど。遠野さんが作品について受けたインタビュー読んでたら「いっか」という気持ちになった。

 この主人公が、どういう選択をしたら、ほかの道にいけたのかな、と今はおもってる。

 

 

 『母影(おもかげ)』は、今はなくなった(近くに同じ系列の新店舗ができたため)書店で買った。あ、(著者の方)知ってる名前、どんな本なんだろ、って買ってみた。少しは立ち読みしたかもしれない。

 なかったことにできなくて買ったのか、あまり深く考えずに買ったのか、覚えてない。

 この本を読めたのは、『破局』を読みきれたからで、「あ、いまならこっちもいける」とおもった。つまり、この『母影』も、また違った意味で、前に読んだときから、どろりといやなかんじを残していた。

 子どものころって、どれくらいのものだったかな、とおもう。言葉にするのが追いつかないから、言葉の記憶として残っていない。

 ぱんっ、と破裂するようなラストだな、と今は感じてる。

 女の子の現実があまりにも濃い。今回もちゃんとショックはショックだし。ずっとショック。けど、たぶん最近いろいろ読んでるのもあって、女の子のきつさだけじゃなくて、他の人たちの欲とか、これまで「ふつう」に過ごしてきた生活の中の仕組みがもつ危うさとか、あと女の子のきつさの側にある幼さと不思議な浮遊感、きつさが日常であるがゆえのある種の達観みたいなのが見えてきた。

 なんだって「人間…」なのだけれど、どうかこの女の子がたくましく(ムキムキ!とかではなく、したたかに)生きていってくれたらなー、とおもう。たくましく生きてける命綱がどっかにころがっててくれ、とねがう。勝手としか言いようがないが。

 『はーばーらいと』で描かれていたものと、表面はちがうけど、なにかしら遠くないところを感じてる。また『はーばーらいと』も読んでみよ…。

 

 

 特に『破局』と『母影』はなかなかヘビー級ではあるものの、文量はここ最近でいえばライトだった。そこのバランスもひょっとしたらとってあるのかな。たぶん他にもいろんな事情とかがあるのかもしれない。

 

 さっきも書いた「ほっとした」みたいな感覚、それを自覚できたのがうれしかった。「いいな」と思っていたけれど遠ざかってしまった作品があって、それは自分の感覚がきもちわるいのかも、こんなのすきって言っちゃだめかも(よほどのことがないかぎりそんなことはない)、と思ったからだった。

 たしかにそのきもちわるさはあるのかも、そのきもちわるさで守られるものがあるのかも、というかある。とは感じる。きもちわるいとかこわいって、感じる分にはすごく嫌だけど、なにかを守るために反応してるんだなー、という。

 ただ、その、きもちわるい!とかっていう感覚が、自分に向いたとき、けっこうきつい。誰かに直接「きもちわるいことじゃないよ」って言ってもらったところで、ぬめぬめしてるし、拭えない。というか、身近なひとにそんなの言って、引かれたくないし、言いたくない。

 でも、こうやって、本を読んだり、ほかにも音楽とか映画とかで、「あ、これ、しってるし、わたしだけじゃないんだ」と思った瞬間、ひとりっきりで抱えこんでたつもりの重さと粘つきと黒さと汚なさのボールみたいなのが、私の手からその一瞬は離れてくれる。

 嫉妬とか、欲望とか、怠惰とか。ざっくりいうとそういうの。コントロールききづらくってこわいこわい。

 本を読んでこんなことを感じることもあるんだなぁ、と新鮮な気持ちになった。感じてたのかもしれないけど見ないようにしてたのかも。

 

 なんというかわたしの言葉が足りているか不安ではあるな…。むず…。